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待ち伏せ  西村和子

首すぢに大暑の初光刺さりけり

垂直の千の沈黙青葡萄

向日葵の待ち伏せに会ふ夜道かな

短夜の寝覚の水腥き

短夜の川より衢明けにけり

川風に明易の床浮くごとし

落蟬やわが戸叩きてこときれし

子へものを書けば遺書めく夜の秋

 

山椒魚  行方克巳

ロック座の裏に目高を飼ふ男

山百合を抱へて死者に逢ひに行く

夏炉焚くシェヘラザードの物語

蛍火や千夜一夜のひとよにて

明滅の滅を数へて蛍の夜

あとかたも残さざるべく蛍の夜

汕頭のハンカチーフのやうな嘘

似てゐると思ふ山椒魚とわれと

 

流れ星  中川純一

母馬を見つつ仔馬の試し駆け

吹き上ぐる海霧に嬲られ蝦夷黄菅

連射砲めきし打水馬鈴薯へ

恋螢はらとこぼれてついと舞ふ

流れたる星の尾を断つマストかな

短夜の聞き慣れぬ鳥さつきから

託児所の満艦飾の星の笹

寝冷えしていつのも台詞パパ嫌ひ

 

◆窓下集- 9月号同人作品 - 中川 純一 選

雲蹴つて蹴つてあめんぼ雲の上
高橋桃衣

刻刻と樗の花は灯の色に
吉田しづ子

梅雨鯰己が濁りに隠れけり
福地 聰

ソーダ水裏腹なこと言ひ続け
岡本尚子

かくて二人黙々と枇杷啜りけり
鴨下千尋

母に添ひ歩行訓練夏木立
月野木若菜

風不死も恵庭も夏の霧の中
中野のはら

梅雨晴の内地より来て蝦夷の雨
永井はんな

神殿の眼下五月の地中海
大野まりな

桜蕊降る棟梁の大工箱
志磨 泉

 

◆知音集- 9月号雑詠作品 - 西村和子 選

其の人も同じ鉢買ひ桜草
山田まや

吹流し漁師継げよと言はねども
藤田銀子

軽鳬の子がゆく横になり縦になり
井戸ちゃわん

ラーメンに玉子を落とす昭和の日
吉田林檎

我がための新茶を買うて帰りけり
磯貝由佳子

古民家と呼ぶには廃れ花楓
石原佳津子

父の日の子よりの電話妻が待つ
福地 聰

ハンカチを結びて母の旅鞄
乗松明美

余り苗にも山越しの余り風
中田無麓

蟇ちょつと苛めてみたくなる
高橋桃衣

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

見舞はざることも有情や春の月
山田まや

疫病流行の時節柄ということも考えられるが、この句はもっと深い情を語っていると思う。病気であることを知ってすぐにも見舞いたい間柄なのだろうが、あえて見舞わない。それは情がないということではなく、あえて見舞わないことも情があることなのだ、という句である。春の月を眺めて、病室からもこの月を眺めているであろう病人を思いやっている。八十代後半の作者の年齢を考えると、病んで衰えているときにその姿を見られるのは、自分でも望まないことであろう。だからこそこうした句が生まれたのであろう。人生経験を重ねた人には共感を呼ぶ作品である。

 

喜ぶも呼ぶも拒むも囀れる
吉田林檎

先日「ダーウィンが来た」を見ていたら、小鳥たちの鳴き声にも言葉と同じような意味があるらしい。人間の耳には同じ囀りとしか聞こえないが、警戒を発しているとき、餌のありかに呼んでいるとき、愛の表現、それぞれ使い分けているということだ。この句を読んでそれを思い出した。
「囀り」という季語は、鳥の恋の季節が春なので春のものになっているが、大雑把に恋の季節とはいっても、喜んでいるとき、呼びかけているとき、拒んでいるときがあるだろう。作者の耳にはそれが聞き分けられているのかもしれない。

 

新茶汲む今なら母と何語らん
磯貝由佳子

お母さんはもうこの世にいないのだろう。作者は今年還暦、新茶をゆっくり味わいながら、お母さんのちょうどこの年齢のころを思い出したのだろう。あのころ自分は若かったから、お母さんが何を思っていたのかわからなかった。今自分がこの年齢に達して、子供もあのころの自分と同じ年代になった。今お母さんが元気でいたら、子育てのこと、人生のこと、何を語るだろうか。そんな心の余裕を語っているのが季語である。子育てに必死だったころ、生活し盛りだったころには、新茶をゆっくり味わうというような時間も心の余裕もなかった。

梅雨籠  西村和子

七変化住み替はりしはいくたびぞ

紫陽花や小路隠れといふ昔

梅雨めくやどこかで鋼削る音

梅雨雲の行方たしかむ鼻眼鏡

門古りぬ枇杷の大木もてあまし

梔子のくりいむ色の絞りたて

小窓よりチェンバロの音時計草

香炷きて彼の世の人と梅雨籠

 

父の日  行方克巳

父の日のなき歳時記を持ち古りし

父の日の父やついでのやうにゐて

日めくりの三日四日過ぎ父の日は

劇中劇のごとくハンカチ落しけり

しどろもどろ汗のハンカチ握りしめ

世渡りの抜手を切つて男梅雨

紫陽花のぼつてり感が一寸いやみ

いま何か踏ん付けたるは蟇

 

姫 鱒  中川純一

支笏湖の姫鱒旨し風旨し

ボート番をらざり湖の波つのり

道産子にサラブレットに風光る

捨て浮標を蹴れば舟虫跳ね出しぬ

六月の波寄せて時還らざる

紫陽花を揉みゐる風が雨呼んで

首タオルしてハンカチとおさらばす

わが庵は代田の下手蟇ぞ鳴く

 

◆窓下集- 8月号同人作品 - 中川 純一 選

一保堂新茶解禁あと二日
島野紀子

五月来ぬ水にやどれる森の色
井出野浩貴

砂の字の訳なく消ゆる啄木忌
原 川雀

藤房に見蕩れてをれば熊ん蜂
村松甲代

ボール跡壁にそのまま卒業す
國領麻美

拗ねてゐる子に空豆を剥かせけり
鴨下千尋

陽炎やモアイの如く人の影
井内俊二

いち早く少女半袖夏来る
福地 聰

このままぢやあ轢かれてしまふ蜥蜴つるむ
前田沙羅

塩鮭の鱗の光る台秤
田代重光

 

◆知音集- 8月号雑詠作品 - 西村和子 選

柄杓よりこぼるる光甘茶仏
藤田銀子

窓からは見えざりし雨楓の芽
井出野浩貴

栗の花一人で通るとき匂ふ
田中久美子

水分みくまりの北も南も田水張る
中田無麓

若葉雨釈迦の腋下を彫り進み
米澤響子

甲板にあごの飛び込む定期便
田代重光

西暦に記す生年昭和の日
中津麻美

小綬鶏の鳴くや仲間が欲しいよと
谷川邦廣

松茸の一片紛れ土瓶蒸
栗林圭魚

渋滞の窓よりしやぼん玉ぷかり
廣岡あかね

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

蝶生る愛さるること疑はず
藤田銀子

「蝶よ花よ」という言葉があるように、慈しみ愛して育てる象徴的なものが蝶である。いうまでもなく季語なのだが、この句の場合は季語の象徴性ということを意識して読んだほうが味わいは深まる。だれもが生まれたときは親に愛されることを信じて疑わずにこの世に出現する。しかしながら様々な事情によって、誰もが幸福な生い立ちを保証されているわけではない。
蛹から羽化した蝶を目の当たりにしたとき、気味悪い虫がこんなにも美しく変身する感動を覚えるものだ。そのとき、美しいものだからというわけではなく、新たな命の誕生について思いを巡らしてできた句だろう。

 

山巓に伽藍ちんまり椎若葉
米澤響子

京都の景色だろうか。この句から青蓮院の別院を思う人も多いだろう。町なかから東山を見渡すと、山の天辺に伽藍が平成になって出現した。初夏の東山は椎若葉がもくもくと盛り上がって山並が生き物のように見える日々がある。そんなとき、山の頂上に伽藍がちんまりと鎮座している光景を詠んだものだろう。
下から仰いでも、あそこから京都市内を見下ろす光景はいかばかりだろうと思われる。行ったことのない人にはぜひ一見をお勧めしたい。

 

夏蜜柑無粋不細工無愛想
田代重光

まず気付くことは、十七音すべて漢字である。見るからに硬い句だ。夏蜜柑は冬の蜜柑とちがって皮が厚くて硬く、なかなか爪が立たない。表記の硬さはそれを表しているようで、おかしみがある。しかも「無粋」「不細工」「無愛想」というわけだ。音読してみると、この濁音の繰り返しが効果的であることに気付く。しかも味は、近年ますます甘くなった蜜柑に比べると、いつまでたっても酸っぱい。
機知の句であるが、根本に写生と実感があることを忘れてはならない。

卯の花腐し  西村和子

沿道の泡立つ卯の花腐しかな

卯の花腐しあづま路の果までも

独りに倦み卯の花腐しにも倦みし

段なして横山誘ふ青嵐

鶯老を鳴く東京を出る気なく

過ぎてより気づく師の忌や若葉寒

疲れ目を養ふ新茶汲みにけり

黒日傘医者くすし通ひに褪せにける

 

五 月  行方克巳

師の齢すぎし五月の木偶坊

足裏の五臓六腑やの五月

カラヤンの鬣なびく五月かな

コンクリート漬の大樹の緑かな

十薬あまた干して百年またたく間

赤蝮きりきりと毒突いてくる

ポケットに青大将のしんねりと

桑の実に舌そめてわが「ヰタ・セクスアリス」

 

梅雨入  中川純一

午後からは土砂降りといふ梅雨入かな

尺獲にして美しき青纏ひ

母の日の酢漿草かたばみこんなにも咲いて

シャインマスカットほれぼれ袋掛

この道のなかんづくこの桐の花

更衣車掌のポニーテール揺れ

蚕豆の唇笑んでをるや否

稿未だ蚕豆は旬過ぎたれど

 

◆窓下集- 7月号同人作品 - 中川 純一 選

宵からの雨となりたる蜆汁
島田藤江

一処鱗をなせり花筏
前田沙羅

さへずりや池につき出し写経の間
永井はんな

月と日に照らされ涅槃したまへり
山田まや

花疲れ花に背を向け川を見て
竹中和恵

マカロンの箱にぎつしり春の色
中津麻美

身ふたつのうつらうつらと桜草
清水みのり

花市の競り勝ち五秒かすみ草
岡本尚子

糸桜風に応へて散らしけり
前田星子

掌を駆ける馬欲し四月馬鹿
帶屋七緒

 

◆知音集- 7月号雑詠作品 - 西村和子 選

全集もステレオも古り雛の家
井出野浩貴

許すとは認めることや春来たる
小林月子

本買ひに隣の町へ花菜風
井戸ちやわん

耕せり土が光を放つまで
中田無麓

子の役目親の責任鳥雲に
山崎茉莉花

耕人の舐めて今年の土計り
帶屋七緒

初蝶の思ひがけなき高さまで
前山真理

太陽の塔の裏側鳥の恋
中野のはら

春風やパレットに色ありつたけ
小塚美智子

草団子買うてビニール傘忘れ
中津麻美

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

悔いを知る者はさいはひ卒業す
井出野浩貴

新約聖書のマタイ伝の一節を思い出す。そこには、あわれみ深い人たち、心の純粋な人たち、平和を求める人たちを称えるとともに、嘆き悲しむ人たち、義に飢え乾いている人たち、義のために迫害されてきた人たちをも、さいわいであると称えている。それは何故かということを考えるとき、私達は神の心の広さ、人間の弱さを思い知るのである。
この句は明らかにその聖書の一節を意識した表現だ。卒業するにあたって、今までの歳月を悔やんでいる生徒を前にしたのであろう。もっと勉強すればよかったとか、友達をもっと作ればよかったとか、後悔は果てしがない。その生徒を前にして、悔いを知るということは今後の君の人生に大いなる糧が与えられたということだと、称え祝福しているのだ。
作者の教員という職業から生まれた心深い一句だ。

 

夫と来し時も甘酒梅見茶屋
小林月子

句の上では「亡き夫」とは言っていないが、想像力のある読み手なら過去形が語っている事情を読み取るだろう。梅が見頃だというので来てみたのだが、茶屋の床几に腰かけて温かい甘酒を飲もうということになった。その時かつて夫とここに来たときも、この茶屋で休んで甘酒を一緒に飲んだことを思い出したのだ。何も語っていないが、その折の夫との話題や二人の言葉が、梅の花の香とともに鮮明に甦ったことだろう。このように俳句では一番言いたいことを言わないでおいても、季語が語ってくれるのである。

 

しやぼん玉吹くとき少しづつ前へ
井戸ちゃわん

しゃぼん玉を吹いている子供を描写した句だが、吹くたびに少しずつ前へ歩を進めていることに気付いた。ありがちなことだが、なんと可愛らしい動作だろう。子供がしゃぼん玉を吹いている光景を愛情を持って見つめていなければ、なかなか描けないことである。春の季語である「しゃぼん玉」からは、風の柔らかさや日射しの明るさ、子供たちが外で遊ぶ季節になった声なども伝わってくる

明日は  西村和子

町並と育ちあめりかはなみづき

木から木へ風を手渡し花水木

門川がはこぶ落花も夕づきぬ

蘂隠しあへず吹かるる白牡丹

葉づくろひをさをさ風の白牡丹

咲き重り明日は崩るる白牡丹

パルチザン映画序幕の揚雲雀

自転車に久しく乗らず風薫る

 

絶滅危惧種  行方克巳

聞く耳を持たぬ治聾酒ねぶりけり

序の舞の序の一指の春憂ひ

花の雨話どつちに転んでも

砂時計いくたび返しても日永

伝法院閉したるまま花は葉に

目高より驚き易き子なりけり

目高の眼ごみのごとくにさんざめき

目高飼ふ男絶滅危惧種にて

 

目 高  中川純一

羽外れさうに震はせ雀の子

桜草思ひの丈の鉢あふれ

つつじ咲き盛り給食通用門

遅咲きの一樹のけふの花盛り

花冷に加へて風の出てきたる

花は葉に馴染みのワイン独り酌み

目高にも娘盛りのあらば今

大夏木翼下男子も女子も容れ

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選

周遊の船の汽笛か初諸子
野垣三千代

こつち見る鏡の視線春愁
松井秋尚

山茱萸を貧者の灯とも華燭とも
中田無麓

アクリル板向かうにマスク受験生國
國領麻美

夫留守の厨事せぬ日の永き
𠮷澤章子

早春の光を廻す水車かな
西山よしかず

目を凝らし風やみし時海胆を突く
菊池美星

アルミ梯子するする伸ばし春立てり
前田沙羅

余寒なほ迷ひ込みたるユダヤ街
藤田銀子

長城に立つや飛燕のはるかより
福地 聰

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選

蠟梅の蕾炸裂したりけり
谷川邦廣

人死して髭剃られをる朧かな
井出野浩貴

初夢に会ひたるは亡き人ばかり
山田まや

藁茸の色滲みたる氷柱かな
吉田泰子

誰からも遠き処よ犬ふぐり
志磨 泉

「さぼうる」のテーブル小さき春愁
中津麻美

薄氷へ風の細波回り込み
大橋有美子

いづれまた乱となるべし初桜
中田無麓

着ぶくれて財布の小銭まだ出せぬ
影山十二香

桜草十代の母健気なる
三石知左子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

稲妻を束ね金縷梅咲きにけり
谷川邦廣

隠喩の句だが、金縷梅の咲き様を稲妻を束ねたようだと見た点が際立っている。春になってまず咲く花だから、「まんさく」だという説もあるが、花とは思えないような形をしているので、紐のようだとか針金のようだとかいろいろな比喩を見かける。
この句の場合は天体の稲妻を想起した点がいい。稲妻という現象は稲の穂孕みに関わりがあるそうだ。科学的な証明はさておき、季節の移り行きに植物の花や実が大きな影響を受けているという直感は鋭い。作者は理系の人だから、何か科学的な知識をお持ちかもしれない。

 

健やかな五体いつまで菠薐草
山田まや

疫病流行の今、誰もが抱えている危機感ではある。作者の年齢が八十代後半であることを考え合わせると、いつまでもお元気なようだが実感であることが伝わってくる。知音の句会に毎月参加なさる八十代の中で、一番お元気で作品も刺激を与えてくれるまやさんだ。しかし今日は元気でも、この健やかな心身がいつまでこのままであるかという思いは、いつも抱いておられるのだろう。
「菠薐草」という季題が、実に生き生きとしていて好ましい。年齢に拘らず、冬も鮮やかな緑は私たちの生きる力を授けてくれる野菜だ。

 

新年号句敵の名の見あたらず
𠮷田泰子

「句敵」というと不穏な響きがあるが、この場合の敵は親の敵とか敵討ちの意味ではなく、ともに切磋琢磨して刺激を与えあう存在を意味する。口や顔に出すことはなくとも、心の中に句敵の存在はあってほしいものだ。句会の場でも、毎月の知音集の頁でも、句敵を意識している人は成長する。
成績に一喜一憂するというのではなく、自分にとっての句敵は誰だろうと思いを巡らせてほしい。句敵の作品が見られない新年号は、作者にとってもの足りないものだったろう。

駒返る草  西村和子

桃活けて離れ住む子の誕生日

山茱萸を挿頭し古墳の主や誰

紫木蓮ひとひら裏を覗かせし

春の風邪心地ふしぶしぎこちなく

亀鳴くや練塀長き綾小路

駒返る草に自転車乗り捨てて

ひもすがら鳴り響動とよむなり木の芽山

ゆくほどに耳朶こそばゆし芽吹山

 

桜 餅  行方克巳

寒牡丹まひるまの閨覗かるる

水影の声かうかうと鶴帰る

燕返し一太刀にしてやられたる

夏蜜柑内緒の話たのしくて

日月をつまぐるごとく彼岸婆

向島よりお持たせの桜餅

桜餅むけば冷たき夜のかをり

黒板に恋ほのめくや卒業期

 

辛夷咲く  中川純一

さきがけの辛夷に風のすさびけり

風船に吊り下げられしピエロかな

地虫出てすぐ草色にまぎれんと

春の出湯息子の軀分溢れ

ドアノブに大家さんより干若布

供へるとなく雛壇の若布汁

一摑みほどの花束卒業す

来年を約して共に浴びし花

 

◆窓下集- 5月号同人作品 - 中川 純一 選

竹馬や行くあてもなくただ闊歩
吉田しづ子

我が内にジギルとハイド去年今年
菊池美星

わが影をひたひた濡らす春渚
大村公美

明王の存外小さし初不動
大塚次郎

生涯を茶道に徹し足袋真白
山田まや

ちよつかいはいつも妹今朝の春
若原圭子

悴むやキャンセル通知捌きつつ
金子笑子

雪の香のはつかに兆し寒椿
島田藤江

夫の背のまろしと思ふ今朝の冬
池浦翔子

飛ぶ夢を見しより続く四温晴
竹見かぐや

 

◆知音集- 5月号雑詠作品 - 西村和子 選

あたたかき日の続きをり寒の入り
島田藤江

志とげたる朝梅真白
米澤響子

枯蘆の枯芒よりかろき音
井出野浩貴

月凍つる醜き我を窓へ嵌め
田中久美子

社への六十六段淑気満つ
井内俊二

マンションの下まで遠し冬籠
大橋有美子

参道のここも閉店春寒し
影山十二香

一投に一打に声援冬うらら
前山真理

寒肥や明日は雨の降るらしく
山﨑茉莉花

表札に旧き町の名鳥総松
藤田銀子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

雪しんしんこのまま暮れてしまふのか
島田藤江

雪がしんしんと降っている。天候も一日もこのまま暮れてしまうのか、それだけのことを言っている句だが、この句からは人生の淋しさが伝わってくる。疫病流行という昨今の世の中の状況や、作者の八十代という年齢を考え合わせると、雪がしんしんと降り積もる一日の淋しさは想像に余りある。
「このまま暮れてしまふのか」という心の呟きは、このまま終わりを迎えるのかという人生の感慨にも及ぶような気がする。寒く静かな世の中の底で、人は人生を深く掘り下げて思うことがある。表向きはあくまでも一日の天候と時間を詠んでいる点がこの句の魅力を深めている。

 

理財にもメカにも疎く蕪汁
井出野浩貴

自画像であろう。理財すなわち金儲けにも、メカすなわち先進機械の操作にも疎い、そんな自分を認めながら、蕪汁をおいしいと啜っている。まだ五十代半ばの作者にしてみれば、努力次第で理財にもメカにも強くなるとは言わないまでも、一般の水準ぐらいにはなれるだろう。しかしこの季語が語っているのはそんなことではない。そんな自分の生き方や価値観をこれでいいのだと自嘲ぎみに諾っているふしがある。
「蕪汁」はけっして贅沢なものではない。しかし作ったこのある人はわかるだろうが、熱を入れすぎると柔らかくなりすぎ、蕪の甘みが損なわれやすい。本当においしく食べるのはひと冬でも数回である。歳時記によると、蕪は株が上がるようにと商売繁盛の縁起物としても好まれたようだ。そう考えて読み直すと、どことなくおかしみが湧いてくる。

 

夫術後我故障中寝正月
田中久美子

「寝正月」とは怠けて寝て過ごしているわけではなく、元来は病気で寝ていることを縁起を担いで表現した季語である。作者は今年まさにそのような新年を迎えた。夫は手術の後、自分は看病疲れが出て何もしないで正月を過ごしたのだろう。「我故障中」という表現に俳諧味があり救いもある。長い人生のうちにはこんなこともある。こんな時でもこうした佳句を詠みうることを称賛したい。

水の器  西村和子

初旅や東海の山名乗り出て

鈴鹿嶺に畝を集めて麦青む

伊吹山雪の拳骨固めたり

天霧の風巻しまけり雪の伊吹山

大いなる水の器の初霞

坪庭の明かりさす窓茶房冬

松過のロビーに聳ゆ猫柳

底冷や画廊の奥の絵の燃ゆる

 

菠薐草  行方克巳

玉櫛笥二上山も春の山

麦を踏む心遅れて行くばかり

ひとの死が我をうながす春疾風

稚のごとく摑り立ちや春嵐

若鮎の寸とどまりて尺走り

母の待つ小さな日向大試験

菠薐草その一束をまづは買ふ

菠薐草一つ覚えのごとく買ふ

 

春疾風  中川純一

バレンタインデーの爺ぢにチョコとキス

早春や犬の床屋はガラス張り

斑雪野の暮れて湯宿の灯のひとつ

混浴のをみなを包み春の雪

吊し雛湯の川へ窓ひろびろと

美しき眉を顰めて大試験

ミモザ咲きひつそりはやりヘアサロン

空港のコーヒー薄く春疾風

 

◆窓下集- 4月号同人作品 - 中川 純一 選

前世は石ころならむ枯野行く
山田紳介

昃れば己れ点して石蕗の花
前田沙羅

無患子の実をちりばめし初御空
平岡喜久子

いただきし小粒のみかんおすそわけ
矢羽野沙衣

咲き満ちて蠟梅翳を失ひぬ
原 川雀

不要不急ならぬ用あり小夜時雨
黒須洋野

好きな色ティファニーブルークリスマス
竹中和恵

眉美しき媼が主役女正月
森山淳子

雑煮椀刃物は持てぬおついたち
島野紀子

人を待つベンチに落葉薫りたる
中津麻美

 

◆知音集- 4月号雑詠作品 - 西村和子 選

冬耕の神事のごとく振るふ鍬
中田無麓

極月の百円ショップに散財す
中野のはら

まつぼつくり拾ふ園児等聖夜待つ
中野トシ子

遠目にも剪定済みし林檎園
金子笑子

冬夕焼海を隔てて大東京
井内俊二

新しき日々平らなれ日記買ふ
吉田林檎

矍鑠たる後ろ姿の冬帽子
野垣三千代

踏みゆけば雨匂ひ立つ朴落葉
田村明日香

手を振つて近づくは誰暮早し
亀山みか月

大木に当てし手のひら今朝の冬
森山栄子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

寒天干す狹門の幅を使ひきり
中田無麓

天草を干すのは夏、日本中の海岸で見られる光景だが、「寒天干す」となると、夜は寒く昼間は雨の少ない土地に限られる。大阪北部の北摂地方では、気候も地形もこの条件に合致するので冬には寒天を製作する工程が見られる。その地形を表しているのが「せばと狹門」というわけである。谷間の奥まったところを意味する言葉だが、この句のポイントはここにある。しかも狭い地形なのに、その「幅を使ひきり」と表現していることで、一面の寒天干場が見えてくる。昼間は山から寒風が吹きつけ、夜は干された寒天が凍るのである。
三十年ほど前、私も北摂の仲間とともに寒天干しを吟行したことがある。こんな山の中で寒天はつくられるのかと新鮮な驚きを覚えたものだ。畑の中で冬の副業として寒天が干されているのだ。作者の住まいはまさにその北摂地域である。真冬の吟行は一年でも若いうちに体験しておいたほうがいいので、近くの仲間はぜひ足を運んでほしい。この句の巧みさが改めてわかることだろう。

 

墓要らぬ話も女正月よ
中野のはら

女正月に集った人々の話題である。昨今は「墓じまい」ということも耳にするほど、遠隔地の墓を守っていくことに難しさを覚える人も多い。家中心の墓に自分は入りたくないという女性の話も耳にする。親類縁者との血縁ゆえの難しさに女たちが従わない時代になったとも言える。「樹木葬」とか「散骨」などの話を聞くと、私はそれがいいと思う女性も増えてくるだろう。「女正月」という季語が語っているのは、女性たちの今までは明かせなかった本音がここに語られているからだ。

 

銀杏落葉赤信号を走り抜け
中野トシ子

落葉の中でも銀杏落葉に目をつけたのは、ことさら輝いて美しいからだ。しかも街路樹に好まれる木なので、落葉の季節には都会でもこうした光景がよく見られる。赤信号なのにお構いなしなのは、人間以外の動物か木の葉なのだろうが、「走り抜け」と表現したところにこの句の工夫はある。まるで小さな生き物が走り抜けたように見えたのだろう。

冬 籠  西村和子

揺り椅子の軋みに抱かれ冬籠

読みさしも詠みさしもし冬籠

こま切れの時間大切日短か

寒鴉松の威を借り月を負ひ

その声の凄み帯びたり寒鴉

寒鴉うつて変はりし愛の声

寒鴉色艶増して人も無げ

寒禽のこゑの華やぎきたりけり

 

棒線グラフ  行方克巳

秣ほども薬出されて十二月

薬喰みんな地獄へ行きたがる

疫病ときのけの師走の疑心暗鬼かな

疫病の棒線グラフ去年今年

初湯して七十齢のおゐどかな

追羽子やパンデミックは音のなく

かまくらは千五百の産屋燭ゆらぎ

竹梯子富士に懸けたり出初式
(「ウエップ俳句通信」120号と重複あり)

 

熟 睡  中川純一

熟睡してテレビ体操忘れ初め

雑煮椀膨れかかりの餅が立ち

着物着て羽子板市にパリ娘

むつかしきことを易しく講始

パルティータ恍惚ポインセチア燃え

八千歩あるき寒椿へ戻る

ポストまで二百五十歩春隣

イーゼルに白きキャンバス春を待つ

 

◆窓下集- 3月号同人作品 - 中川 純一 選

鶴折ればどれも傾き憂国忌
米澤響子

店員の藍の前掛け新酒買ふ
𠮷澤章子

黒葡萄魔女の吐息に曇りけり
井出野浩貴

ときをりの日矢に零れて冬桜
中田無麓

湯豆腐や京に木綿は白と呼ぶ
島野紀子

曙の水面染めたり浮寝鳥
江口井子

掌にぬくめてホットレモンの香
吉田しづ子

マフラーやわが彷徨の欅坂
黒須洋野

枯菊の枯れに枯れたる軽さかな
福地 聰

話すことなくても愉し暖炉燃ゆ
前田星子

 

◆知音集- 3月号雑詠作品 - 西村和子 選

切干のほとびて母のゆふまどひ
井出野浩貴

手をひかれハロウィンの子の口あかく
吉田林檎

紅玉の今日焼林檎明日はジャム
山崎茉莉花

近所にも名所十景黄落期
井内俊二

抽斗に無効の旅券鳥渡る
藤田銀子

二の酉の空に星なく月のなく
栃尾智子

愚痴つてもおもろい男おでん酒
影山十二香

飴色の日に猫じやらしこくりこくり
田中久美子

木の実独楽せうことなしに廻りをり
米澤響子

創刊号準備大詰日短か
月野木若菜

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

旅心今は押さへて毛糸編む
山﨑茉莉花

「今は」がどういう状況を示しているのか、この句からはわからないが、同じ時期を生きている私たちには、新型コロナウィルスの世界的感染の今であることがわかる。こういう句は前書きがあったほうがわかりやすかもしれないが、句集を編むとき、令和二年の冬の作として収めれば、おのずからこの背景はわかる。今の過ごし方の偽りない本音である。旅行はしたいけれど、今はそれを押さえて、家に籠って毛糸を編んでいるのである。
作者は五十代後半、子育ても終わって、体力のあるうちに夫婦で旅行でもしたい時期なのであろう。人生の今にしてできた句といえよう。

 

人間に信じる力神の留守
藤田銀子

この句も今の世界情勢をふまえた作である。新型のウィルスが正体不明のものである以上、今の私たちに何ができるだろう。特効薬やワクチンの開発が急がれているが、これで疫病退散とはいかない現状である。何ができるだろうと突き詰めて考えた結果、神仏に祈るしかない人間のはかない存在に思い至ったのだ。「神の留守」という季語は、この句の場合かなり象徴的に用いられている。神社に行って手を合わせても神様は出雲に旅立っているのである。ひいては神の存在さえ疑っているかもしれない。「人間に」と一般的に表現していることが、全世界の人間存在を意味しているとも受け取れる。祈る対象の神は宗教によってそれぞれ異なるが、祈れば通じるという信じる力があってこそ、明日への希望が湧いてくるのだ。

 

気を付けの右へ傾いで七五三
栃尾智子

七五三の句は七歳の女の子か、五歳の腕白か、三歳の幼子か、読んですぐ目に浮かばなければならないと私は思っている。この句は疑いもなく五歳の男の子だ。記念写真を撮ろうにも一瞬たりともじっとしていない。祖父母か両親が「気を付け」と号令をかけたのだろう。素直に従ったが明らかに右に傾いでいる。男の子の可愛さが描かれていて微笑ましい。

懐 剣  西村和子

初富士の鬣けぶる車窓かな

年酒酌む遺影に語りかけられて

ダリの牛古径の丑と賀状来る

懐剣の丈の見えたり語り初

安普請隠しもあへず花八手

花八手老の待ち伏ここに又

花八手都に鬼門不浄門

遠隔会議中座画面の白障子

 

イマジン  行方克巳

疫病ときのけのマスクの含み笑ひかな

目配りの効いて女将の白マスク

イマジンとつぶやいてみる冬の星

みちのくの夜話いまに青邨忌

切り貼りの千鳥古りたる障子かな

晩年や柚子湯に遊ぶこともなく

日向ぼこ地獄巡りの途中とも

点鬼簿に誰彼加へ十二月

 

底 冷  中川純一

エスカレーターの先頭七五三

紅葉して実生十糎の楓

蒼き月都庁に上がり三の酉

値崩れの白菜の山輝ける

底冷やむすび一個に人心地

東京に雪虫遣はせしは誰ぞ

年詰まる立食蕎麦に師と並び

隣り合ふベンチに美人日向ぼこ

 

◆窓下集- 2月号同人作品 - 中川 純一 選

片割も間遠に応へ残る虫
米澤響子

秋さびし運河倉庫の文字の欠け
吉田しづ子

どれほどのことを丁度と葛湯吹く
高橋桃衣

悪口の上手な男おでん酒
影山十二香

青空へ続く石段七五三
前田沙羅

目覚むれば県境超え秋うらら
吉田林檎

あの日より日記が途絶へ夏の川
原 川雀

立冬の日や寛解の身を預け
黒山茂兵衛

身に沁むや母の最期のありがたう
吉澤章子

原点に戻つてゆきぬ冬木立
山本智恵

 

◆知音集- 2月号雑詠作品 - 西村和子 選

小望月帝国ホテルの横に出づ
高橋桃衣

鈴虫や靴の小石を掻き出せば
井内俊二

池の面を桂馬飛びして銀やんま
田代重光

鳳仙花弾き転校して行きし
石原佳津子

また来てと母に言はれて秋の暮
井出野浩貴

天高し川向うから行進曲
井戸ちゃわん

切り返しベンツの曲る萩の路地
中野トシ子

秋扇いきなり箸となりにけり
天野きらら

前山のにはかに退り秋時雨
中田無麓

制服に受賞のリボン冬あたたか
小倉京佳

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

柿たわわひとつづつより雨雫
井内俊二

始めは一本の柿の木を遠くから眺めている。たわわに実っているというのが第一印象。近づいてひとつずつの柿を見るとそこから雨雫が落ちている。広い視野から極小のものへ段々にズームアップしていく視点の動きがある。こうした手法は俳句にしかできないことである。もちろん映像ではできるのだが、写真や絵ではこうした視点の動きは出せない。名句を読んでいると、この手法を巧みに使っている句に出会うことがある。大いに学ぶべきと思う。
この句は雨が上がった直後だということがわかるし、熟した柿からの雨の雫がきらきら光っていることも見えてくる。おのずから場所柄も想像できる。

 

人影の梵字となりて阿波踊
田代重光

阿波踊の大きな会場を外れた路地の光景と思われる。明るくライトアップされているのではなく、踊る影が影絵のように光線に浮かび上がっているのだろう。阿波踊は盆踊であるから、死者の魂を迎えたり慰めたりする思いが籠っているものだ。したがってこの「梵字」という例えは、単なる比喩を超えて宗教的な意味合いまで含まれている。それにしても、手を上げ足を上げて踊る阿波踊の人影を梵字と見た比喩は巧みだ。
私も阿波踊の連に加えていただいて踊ったことがあるが、この人影は男踊に違いない。

 

水道の水の旨しと帰省の子
石原佳津子

家を離れていた子供が夏休みに帰ってきた時の言葉だろう。井戸水とか地元の名産ならまだしも、水道の水がおいしいといった子供の言葉に、作者は胸を突かれたに違いない。子供が暮らす大都会の水道の水はそれほど味気ないということだ。薬の匂いまでするのかもしれない。もちろん作者は毎日口にしている水道の水の味が、それほど違うとは初めて知ったのだ。帰省子を読んだ俳句はよく見るが、この句は新鮮味がある。実感の籠った言葉がそのまま作品になったからだ。

跳梁跋扈  西村和子

マフラーや口ごもるとき句が生まれ

マスク捨てひと日の徒労葬りぬ

立錐の炎と化せりスケーター

午後の日の失せて筆擱く膝毛布

花びらのめらめら冷ゆるポインセチア

灯を消せばポインセチアの緋も消えし

狐火は跳梁疫病神跋扈

返信の隙無し師走の縁切状

 

冬に入る  行方克巳

ペン描きの並木の掠れ冬に入る

落葉掃くこころの隅をはくごとく

明け暮れの点料たのみ一茶の忌

鴉にも悪たれ口や着膨れて

着膨れて減らず口とは減らぬもの

だめもとの話勤労感謝の日

聞きわけのよい子悪い子七五三

千歳飴すぐに引き摺り振り回し

 

新 米  中川純一

新米と抜いて真赤な幟旗

小鳥来る相方ゐてもゐなくても

鮭を待つ川の紺碧きはまれる

ドメーヌと標し特区の葡萄垂れ

摘みごろの余市の葡萄日あまねし

かしましく葡萄選果の娘らは

雪螢風の急流日に注ぎ

熊よけの鈴が先頭柿日和

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

児の駈けて一家総出の稲を刈る
島田藤江

蓑虫へ鳴くかと問へば揺ぎけり
志佐きはめ

奔放に見えて真剣秋桜
小澤佳世子

満ち足りし色に出でけり今日の月
前田沙羅

露草の瑠璃を深めて通り雨
大野まりな

草原に並ぶ彫像天高し
大村公美

柏槇の幾世の闇や昼の虫
黒木豊子

白木槿蘂の先まで真白なる
井出野浩貴

酒蔵に満つる新酒の香りかな
平野哲斎

ウェディングドレス運ばれ秋灯
高橋桃衣

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

国を盗り国を盗られて曼殊沙華
井出野浩貴

冷え冷えと有刺鉄線角栄邸
高橋桃衣

かき口説く太棹きしむ秋じめり
島田藤江

野分雲迅し新幹線より速し
石山紀代子

句短冊使はぬままに夏終る
大橋有美子

われからや逆賊こそが救世主
岩本隼人

鳳仙花庭から入る祖母の家
吉田泰子

捨田にもなほ一旒の曼殊沙華
中田無麓

伝令のをるや蜻蛉みな去りぬ
中野のはら

色変へて広がりゆくや処暑の海
菊池美星

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

小鳥来る母の月火水木金
井出野浩貴

平日の暮らしぶりを丁寧に表現したのが月火水木金というわけだ。土曜日曜は家族が来たり行事があったり、他の暮らしがあるのだろう。それを一日ずつ表しているのは、丁寧な生活を言っているとともに、似たような毎日を言っているのかもしれない。「小鳥来る」という季語は、秋の明るい一日を表しているので、決して暗い日常ではない。むしろ、季節の恩恵を楽しんでもらいたいという作者の祈りも感じる。
 

あちら子連れこちら犬連れ秋日和
高橋桃衣

秋の好天の公園の情景であろう。あちらの人たちは子供連れ、こちらは犬を連れて来ている。音読してみると、ラ行の音の繰り返しが、軽やかな心持ちを伝えることがわかるだろう。あちらという表現は、あっちとか、彼らとかあそことか、いろいろと言い換えられるはずだが、「あちら」「こちら」という語の選択は、ちょっと気取った距離をも感じる。子連れに対して犬連れという言葉は、おかしみもある。「秋日和」という季語は、他の季節にも言い換えられるようだが、空気が澄んだ高い空の下での人々の解放された気分は秋でなければ感じとれない。
 

修羅能の果てたる銀座秋しぐれ
島田藤江

銀座六丁目にある能楽堂を出たときの作であろう。修羅能というおどろおどろしい演目を観た後で、外に出てみると、都会の街並みは雨。現実の世界からかけ離れた能楽堂の時空から、瞬時の間に銀座通りに出た落差を味わいたい。能の世界に浸っていたときは、人間の業という内面の闇を探っていたのだろうが、銀座通りは日常の世界である。その対比をつないでいるのが「秋しぐれ」という季語であって、作者にとっては単なる通り雨ではないのである。 

柿博打  行方克巳

ちつちやな秋ちつちやな秋ちつちやな秋の小走りに

浅知恵の恋のあはれや菊人形

抱かれてお夏菊師の意のままに

ハロウィンの南瓜のなかにされかうべ

ハロウィンの化粧崩れのやうな奴

禅寺丸鵜は唖々とばかり鳴き

柿博打渋い顔して笑ひけり

銃眼の三角四角柿の秋

 

小鳥来る  西村和子

廂間にけぶりたりけり小望月

待つ我に月人男つきひとをとことどまらず

実紫よべの月光浴びけらし

十六夜や雲の羽交に隠れつつ

十六夜の月よりの風かんばせに

久々に集ふ晴天小鳥来る

玻璃の楼積木の砦小鳥来る

小鳥来る天金の書に飾り文字

 

◆窓下集- 12月号同人作品 - 西村 和子 選

じやがいものよくぞ積まれし荷台かな
中川純一

親つばめ餌をやる口を迷はざる
井出野浩貴

今朝生れし蟬かじくじく鳴くばかり
高橋桃衣

白梅の万の蕾に心充ち
栗林圭魚

噴水の水が元気と男の子
田中久美子

秋さびし牛の黒眼に見詰められ
植田とよき

珈琲を挽く三伏の朝かな
藤田銀子

家路とは彦星と遠ざかること
吉田林檎

二人ゐて気怠き午後のカンナかな
石山紀代子

ゆで卵こつんと叩く秋意かな
米澤響子

 

◆知音集- 12月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

昼顔や保健室では多弁とか
井出野浩貴

水澄むや川底浅く浮き上がる
松井秋尚

木雫の肩に項に涼新た
井内俊二

新涼の社にマウンテンバイク
小林月子

脈をとる指は三本秋の雨
天野きらら

芋虫に飛ぶなど思ひ寄らぬ事
井川伸造

そのひとつ夫の星なり星月夜
青木桐花

夏越会の痩せぽつちの猿田彦
島田藤江

裏山の裾を啄む鶉かな
山本智恵

仲秋の上野地階にゴッホの黄
吉田林檎

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

みづうみにうつらぬ高さ夏つばめ
井出野浩貴

天気のよい日には燕は空高く舞い、あまりよくない時には低く飛び回ることは経験的にも知るところである。私の中等部のかつての同僚で故加藤一男さん(通称ワンマン)はすぐれた教育者であり、中等部では山岳部の顧問として長いこと生徒に親しまれた、いわゆる強持ての人で、授業もクラブ活動も厳しいことで知られていた。その加藤さんの著書に『お天気占い入門』があり、私ははじめて燕の飛び方の真実を知った。つまり天気がよくて高気圧の時は、燕の食物である羽虫の類が高く飛び、雨模様などの時は羽虫の類は低く飛ぶ。だから当然餌をあさる燕の飛び方も変わってくるというのである。この句の燕は湖面に映らない高さで飛んでいるというので、どちらの空模様に近いのかは分からないが、いずれにせよある高さ(それは水面に映らないほどの高さ)を飛び交っている、というのである。「うつらぬ高さ」というやや曖昧な表現で事実を描写した一句ということになろう。

 

絵のひとの見下ろす視線冷やかに
松井秋尚

美術館か古城などに掲げられた肖像画。描かれた女性は確かに美しいけれどどこかに冷たさを含んだ視線である。それが主人公の為人ひととなりをストレートに伝えている。

 

この字に一族集ひ鳳仙花
井内俊二

昔の町村には「大字」と「小字」という区画名があった。この句、一つの字に同じ苗字を持った家が集まっているというのである。同族の人が一緒に移り住んで来たとか様々な理由はあるだろうが、今でもそういう土地がないわけではない。