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白 味 噌  西村和子

愚かなる人類に年改まる

身の軋み壁の亀裂も寒に入る

真夜覚めて微光不気味や寒の内

負けつぷり潔きかな初相撲

弓なりに堪へあつぱれ初相撲

破魔矢受く疫病えやみ三年祓ふべく

練るほどに白味噌艶冶小正月

さきがけの白梅五粒陰日向

 

寒 の 水  行方克巳

氷りけり風波のその細波も

下剋上よりも逆縁雪しづり

着膨れてマスクのうへの鼻眼鏡

年寄の嫌みなか/\着ぶくれて

着ぶくれてこの世せましと思ひけり

初夢の終りさんかく まる しかく

血の管を滌ぐ寒九の水をもて

寒の水ほんたうはこれが一番うまい

 

泣き黒子  中川純一

初詣般若心経漏れ聞こえ

獅子舞のすはと伸びしが一睨み

泣き黒子ばかり目を惹き初映画

梅早し見えてきたりし待乳山

人日の妻に購ひたる肌守

パエリアを請はれ俎始かな

鰻屋の壁の羽子板ひとつ殖え

春近き日の斑ころがり心字池

 

 

◆窓下集- 3月号同人作品 - 中川 純一 選

リヤカーの二人子下ろし大根乗る
島野紀子

新海苔や炙り上手と夫おだて
池浦翔子

ていねいに遺影を拭くも年用意
米澤響子

秋深し猿の腰掛席二つ
井戸村知雪

みちのくに風の咆哮鎌鼬
小野雅子

古セーターまとひて心さだまれる
井出野浩貴

暮るるまで枯野に居りて枯野詠む
山田まや

諳ずる東歌あり山眠る
前田沙羅

薄切りの夕月色の大根かな
山本智恵

下総の土塊荒き冬ひばり
吉田しづ子

 

 

◆知音集- 3月号雑詠作品 - 西村和子 選

麓まで葡萄畑の連綿と
谷川邦廣

隧道を二つ抜け冬近づきぬ
藤田銀子

木枯に幟はためく「にぎわい座」
國司正夫

木の葉髪近頃夫と意見合ふ
くにしちあき

数へ日の神主ベンツ降りて来し
佐貫亜美

羽子板市テレビカメラは美人追ひ
小池博美

行列に鳩の割り込み十二月
吉田林檎

眼鏡外して秋の声聴き止めむ
山﨑茉莉花

落葉寄せ付けず社の新しき
高橋桃衣

筆談の最後は破線冴返る
米澤響子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

医者で待ち薬局で待ち年の暮
谷川邦廣

「医者」「薬局」という場から年齢が想像できる。あるがままを淡々と詠んでいるが、年末の人々が殺到する場所で、ここでも待たなければならない、また、待たされるというやりきれなさが言外から察せられる。「待たされ」とか「待たねばならぬ」とか表現すると、愚痴や不満になる。事実だけを述べて思いは汲み取ってもらうという、俳句の骨法にかなった句だ。いうまでもなく季語に多くを語らせている。
企業の四十五歳研修で俳句を始めた作者も、喜寿を越えた。老齢の日々はこんなものだと冷静に描いた点に年季を感じる。

 


落葉掻く丘に図書館能楽堂
國司正夫

丘に図書館が立つ町は全国どこにでもあるが、能楽堂がある町はざらにはない。季語が、歴史ある木立と静けさを語っている。文化的に成熟した街を想像させる。単なる事実を述べただけだが、想像の世界が広がっていく楽しさがある句。
この句はヨコハマ句会の吟行で久しぶりに紅葉坂へ行ったときの所産。横浜に限らず、木立の中に図書館や能楽堂がある丘の上を想像してみよう。

 

 

木の葉髪近頃夫と意見合ふ
くにしちあき

ということは、昔はご主人と意見があまり合わなかったのだ。黙って従う妻ではないことも語っている。若い頃は、意見の違いを堂々と語り合った夫婦に違いない。ところが季語が語るような年齢になると、夫の意見に反発を覚えない自分を見出したのだ。
この句は近頃だけを語っているのではなく、若かった頃の夫婦のありようも語っている点に、工夫も味わいもある。

 

去年今年  西村和子

木登りのはじめ冬木にかぶりつき

少年に腹筋冬木に力瘤

冬晴やサッカー少年いづこにも

働けるかぎり働くちやんちやんこ

客捌きつつ鎌倉の年用意

数へ日のいつもの茶房常の席

年越の塵も埃も我が身より

子ら来るを待てば輝く初御空

 

もう若くない  行方克巳

どの畦に立ちても筑波颪かな

蓮根掘る常陸風土記の国中くんなか

蓮根掘る泥の細波かき立てて

狸とも貉ともなく十二月

冬桜咲きの盛りのさびしらに

ぶくぶくと柚子が湯を噴く冬至かな

如何にせん冬至南瓜の四半分

おでん酒ふたりとももう若くない

 

紅天狗茸  中川純一

紅天狗茸の観察這つて寄り

そつぽ向きをれば目に入り実南天

風呂吹に絵の具のやうな味噌のせて

居眠れる眉美しや暖房車

ときどきは水をたもれとシクラメン

退任の後の柚子湯にふかぶかと

黄落や出会ひがしらの手を振りて

山眠る瓦礫屍の街の果

 

 

◆窓下集- 2月号同人作品 - 中川 純一 選

松手入まづ空鋏唄はせて
池浦翔子

胸元をふつくら合はす菊師かな
影山十二香

変声期終はれば美声小鳥来る
杢本靖子

栗おこは買うて一日を締めくくる
黒須洋野

山茶花散る音なき音を聴きにけり
山田まや

昌平坂行きつ戻りつ秋惜しむ
村松甲代

嘘なんてつけないものね蜜柑むく
山本智恵

スリッパの冷たき東方正教会
米澤響子

石狩川河口十里の芒原
吉田しづ子

豊の秋里山暮し愉快なり
吉澤章子

 

 

◆知音集- 2月号雑詠作品 - 西村和子 選

学府に灯銀杏落葉を照らしつつ
井出野浩貴

塔婆書く僧はTシャツ萩の寺
國司正夫

潮風の匂ふわが町鳥渡る
井戸ちゃわん

言ひかけて言ひやめしことすがれ虫
山田まや

豊の秋動けないから腹減らぬ
中野のはら

石蕗咲くや昔小池のありし庭
中津麻美

秋うららぼうろかるめらかすていら
立川六珈

袖捲り泰山木の花仰ぐ
栗林圭魚

七五三父の最も美形なる
影山十二香

一景に花なき葉月吉野窓
藤田銀子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

山茶花や畳むほかなき家なれど
井出野浩貴

「畳む」という日本語には様々な意味がある。衣服を畳むという他に、まとめて始末するとか、胸に畳むとか、広辞苑を引くと物騒な意味も書かれている。この句の場合はいうまでもなく、「店を畳む」のように閉じて引き払うという意味に使われている。「始末する」などと言ってしまうと身も蓋もないが、「畳む」という言葉が選ばれている点に作者の思いが籠められていよう。
もう誰も住んでいない親の家、これから住む予定もない家だが、人生の大半の思い出がある家。そこを引き払ったり人手に渡したりしなければならない辛い体験は、五十代を過ぎると誰もが思い当たることだろう。「山茶花」という季題に、作者の愛着や淋しさが籠められている。さらに「家なれど」と言いさしている点に、理屈ではわかっているのだが、心情的にはそうしたくはないという心残りも表れている。

 


芸術の爆発したる上野秋
國司正夫

「芸術は爆発だ」という岡本太郎の激しい言葉を、誰もが思い浮かべるだろう。上野といえば美術館や博物館、芸大や音楽会場など、東京の代表的な芸術の町だ。この表現から、かなり前衛的でシュールな絵や彫刻などが見えて来る。芸術家の様々な生き方を、否定したり拒絶したりするのでなく、こういう世界もあるのだと楽しんでいる思いが伝わってくる。

 

 

秋晴や口あけて干す旅鞄
井戸ちゃわん

澄んだ秋空の下、旅の思い出とともに、鞄を干している。これは誰もがすることであるが、「秋晴」という季語が大いに語っている、終えたばかりの旅も好天に恵まれて、秋の景色や味覚を存分に楽しんだであろうし、鞄には土産物も詰め込んだのだろう。それらを空っぽにして鞄を干したとき、旅が終わったと実感したのだ。心身ともにリフレッシュして、今日からは秋天の下で掃除、洗濯に励もう。そんな声も聞こえて来そうだ。

 

憂国忌  西村和子

玲瓏と冬天朗々と鳶

禍事を祓へたまへや銀杏散る

手品師の鳩紛れをる冬日向

綿虫やひとりごころを嗅ぎつけて

綿虫や御納戸色を纏ひたる

憂国忌天の金瘡擦過傷

残照に梢をののく憂国忌

憂国忌罪悪感のいづこより

 

この児抛らば  行方克巳

紅葉且散る石のきだ水の段

虫食ひも病葉も冬紅葉かな

落葉籠てふ一品を展じたる

落葉籠にも夕しぐれ朝しぐれ

寂庵のけふも居留守か雪螢

色変へぬ松にも紅葉敷きつめて

紅葉渓この児抛らば夜叉となる

冬紅葉阿弖流為アテルイの血に母禮モレの血に

 

冬に入る  中川純一

紅天狗茸の観察這つて寄り

霧はれて来し初島の仔細かな

手芸屋に目当の小物文化の日

縋りつく菊師に政子目もくれず

冬に入るクロワッサンがほろと裂け

バスを待つ唇乾き今朝の冬

白鳥を彫り起こしたる朝日かな

大声で呼ばれ振りむき蓮根掘

 

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

思ひ草しやがんで覗きゐたりけり
山田まや

狩人のベルトに一枝白桔梗
山本智恵

面会の十分了へて虫の声
太田薫衣

夫の忌や未だ生かされて秋桜
村地八千穂

西域の星の色なる葡萄かな
井出野浩貴

稲刈の列凸凹となる遅速
松井秋尚

きのこ山茸匂ひて雨激し
島田藤江

初恋の話などして敬老日
橋田周子

花街の湯屋の灯点り夕月夜
芝のぎく

七色のもう暮れ初めし秋の海
大村公美

 

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

嬉しくて羽ばたき止まぬ小鳥かな
高橋桃衣

拾はむとかがみ椎の実こぼしけり
井出野浩貴

母によく似た人ばかり処暑の街
藤田銀子

右琵琶湖左秋草湖西線
島野紀子

十五夜のコインランドリーにひとり
井戸ちやわん

帰り来る人は無けれど水を打つ
橋田周子

母の手のスローモーション曹達水
佐々木弥生

身に入むや血脈の絶え歌残り
牧田ひとみ

宝くじ売り場に上司秋の宵
成田守隆

風にふと押し出されたり秋の蝶
松枝真理子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

秋の空吸ふ前に息吐き出さん
高橋桃衣

高く晴れ上がった秋の空を仰いで、深呼吸しようとしたときの作。爽やかな新しい空気を存分に吸い込もうとするには、その前に肺に残っている空気を吐き出さなければならない。このことは深呼吸だけではなく、自然界や人体をはじめとする大方の物に通じる真理である。
「秋の空」は動かない。試しに他の季節に置き換えてみるといい。春では心地よすぎるし、夏は辛い。冬はどんよりしている。清新なものを取り入れようとするとき、澱んでいた空気は吐き出した方が効果が期待される。

 


彦根から守山からのヨットの帆
島野紀子

地名が効果的に用いられた句。「彦根」と「守山」といえば、琵琶湖の光景であることが一読してわかる。湖にヨットが繰り出してゆく光景を描くのに、湖という言葉を使わない工夫が凝らされている。琵琶湖の地理が頭に入っている人には、彦根から出て来たヨット、守山から進んできたヨットの方角や向きがすぐに想像できるに違いない。
海のセーリングは激しい動きがあるが、湖のそれは堂々として静々としている。そんなことも見えて来る句だ。

 

 

帰り来る人は無けれど水を打つ
橋田周子

一人暮らしの境遇から生まれた句。家族がこの家に帰って来た頃は、その時刻になると玄関から門までの辺りに水を打っていたのだろう。それは、昼間の火照りを冷ます効果はもとより、外で働いて帰ってくる家族を迎えるための、主婦なりの心遣いであった。何十年か経って境遇の変化を経て、家を守っている作者。もうこの家に毎日帰ってくる人は無いのだけれど、長年の習慣を守っている。「水を打つ」という季語は、とかくもてなしの思いで詠まれることが多いが、この句は自宅に水を打つ作品である。おのずから作者の人生をも語ることになった。

 

稲 光  行方克巳

夕月夜桟橋はひと悼むところ

稲光いま無呼吸のわれならずや

稲光つひのひとりと思ひけり

灯火親し見ぬ世の友も見しひとも

世渡りの栗羊羹も酒もよし

栗羊羹の歯形いやしき男かな

水深のごときゆふぐれ迢空忌

穴惑ひ山廬の昔語るらく

 

十七年  西村和子

そののちの秋速かりし長かりし

旅さやか世に亡き人を伴ひて

それよりのはぐれ心の秋深し

見晴らしの堂塔山河秋日和

叡山の額蒼白秋気澄む

山頂を浄めたりけり秋の風

山河秋心あらたに生きよとて

秋の声すなはち死者の声届く

 

海 光  中川純一

秋麗ら振らねば止まる腕時計

桂馬飛びして墓原の青飛蝗

石狩の朝日燦々鮭を待つ

惜しみなく板屋楓の紅葉晴

海光は鳶の描線秋麗ら

北大の秋日きはまるポプラかな

をみなたる気概ありけり皮ジャケツ

綿虫の描き散らしたる光かな

 

 

◆窓下集- 12月号同人作品 - 中川 純一 選

嬰に耳触られてゐて夜長し
亀山みか月

もう夫は寝付いて居りぬ虫の闇
金子笑子

蟷螂の目力にもう負けてゐる
下島瑠璃

辞書重し一字を探す秋灯下
山田まや

ほんのりと海の匂へり心太
𠮷田泰子

口開けてフェリーが待つよ夏休み
石原佳津子

毘沙門の虎を包みし法師蟬
村松甲代

アレと言ひアレねと返す盆用意
森山栄子

鄙ぶりの特大おはぎ施餓鬼棚
吉田しづ子

夕まけて一番手なるちちろ虫
鴨下千尋

 

 

◆知音集- 12月号雑詠作品 - 西村和子 選

溽暑きはまりぬ為政者狙撃され
藤田銀子

蚯蚓鳴く俳句すいすいできる夜は
松枝真理子

屋上へたれも誘はず鰯雲
井出野浩貴

青田風農家継ぎたる眉太き
田代重光

台風やテールランプに目を凝らし
前山真理

小鳥来る人は弁当食べに来る
吉田林檎

ボール探す秋草踏んで踏んで踏んで
高橋桃衣

曼珠沙華すつくすつくと着地せり
米澤響子

榛名富士凛と映して水の秋
鴨下千尋

少年の頃の昂り台風来
松井秋尚

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

つはものの落涙か滴れるとは
藤田銀子

滴りという自然現象を涙と見立てる俳句は珍しくはない。しかしこの句の涙は「つはものの落涙」である。NHKの今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」を見るにつけても、貴族の世から武士の世の中への日本史の移行に際して、数々の残酷な戦いがあったことを私達は改めて知ることになった。
この句の作者は鎌倉在住なので、至る所に血なまぐさい遺構があることを知っている。崖や切通しの滴りを目にして、これは鎌倉時代の武士たちの無念の落涙ではないだろうか、と見えてくるのだろう。同じ涙でも、悲しみや淋しさゆえのものではなく、つわものの涙は無念や恨みの象徴である。「落涙」という言葉のニュアンスも汲み取りたい。

 


寅さんのポスター褪せてかき氷
田代重光

いうまでもなくフーテンの寅さんのポスターである。今でもテレビで放映されると必ず見てしまう、昭和の名作だ。そして同じところで声を出して笑ってしまう。どの地方の背景も昭和の時代をそのまま映していて、私達の世代には懐かしい限りだ。
そのポスターが褪せてしまっているという点に、昭和が遠くなったことを実感する。作者はかき氷を食べているのだ。その場所は柴又商店街かもしれない。映画の終わりは、冬なら江戸川の土手の凧揚げ、夏はとらやのおばちゃんが作るかき氷、そんなパターン化した画面も今となっては懐かしい。この季語は動かないのである。

 

夕まけて夢二の庭の秋の声
鴨下千尋

毎年伊香保で行われる夢二忌俳句大会も、疫病の影響で今年は三年ぶりの開催となった。その折の句。「夢二の庭」は榛名湖畔に夢二の最晩年に建てられたアトリエのことだろう。地元の有志によって保存されているそのアトリエは、毎年吟行コースに組み入れられている。庭といっても秋草が伸び放題になっていて、露草の色が印象的な空間である。ここで過ごしたいという夢二の夢は叶わなかったが、目の前の湖が暮れて来ると、現実には聞こえて来ないはずの声や音が、詩人の耳には届くのだ。

 

稲 雀  行方克巳

九十九里浜秋は薄刃のごと翳り

秋の浜座れば砂のあたたかく

稲雀憎く雀の憎からず

稲雀投網打つたり峡の空

一陣の返せば二陣稲雀

蛇笏忌や後ろ手の何考へる

蛇笏忌や酒のごとくに水銜み

段ボール抱へて何処へ秋の風

 

月よりの風  西村和子

かんばせに名月よりの風まとも

老松のかひなに乗りし今日の月

かへりみて我が月かげの淡かりき

いま一度月仰ぎたり鍵を手に

素揚げしてこれぞ茄子紺照りまさり

愕然と秋至りけり関八州

西国の塔乗口の葭簀褪せ

長州の気性鮮烈櫨紅葉

 

木 犀  中川純一

飛び出でて蝙蝠あてどなかりけり

野分雲そろそろ米も買ひ足さむ

蟷螂の夫恍然と齧らるる

蟷螂のすがる地蔵の涎掛

金風や光の粒は昨夜の星

木犀の香る七曜はじまりぬ

木犀や雨の匂ひの風立ちて

萩に触れ芒かはして蕎麦庵へ

 

 

◆窓下集- 11月号同人作品 - 中川 純一 選

夏休となりのトトロ抱つこして
山田まや

向き変り須磨の風来る風知草
前田星子

校長も家族を連れて踊の輪
島野紀子

蓋とれば細工物めく鱧尽し
小野雅子

目の合ひし蜥蜴と我の時止まる
吉田泰子

丸に金金毘羅さんの渋団扇
西山よしかず

島焼酎今宵は踊り明かさむと
下島瑠璃

老ひの背を伸ばせ伸ばせと雲の峰
村地八千穂

水引草風をなぞつてをりにけり
山本智恵

草叢の水引草は母の花
政木妙子

 

 

◆知音集- 11月号雑詠作品 - 西村和子 選

清張の男と女戻り梅雨
井出野浩貴

幾たびも五山の廻る盆燈籠
米澤響子

血脈の絶えて凌霄咲き続く
牧田ひとみ

雑踏に交じりて涼し京ことば
中津麻美

糸蜻蛉水面の影はさだかなり
吉田林檎

緑陰の一卓をわが城として
山田まや

祇園囃沸き立ち鉾の揺れに揺れ
佐貫亜美

桑の実やジャズのもれ来る蔵座敷
影山十二香

手真似して踊の輪には入らざる
成田守隆

さぼつちやえさぼつちまえと蟬の声
松枝真理子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

週末に辿りつきけり夜の秋
井出野浩貴

働き盛りの作者であることが一読してわかる。暑い最中も一週間汗をかきかき働いてきた。やっと週末になったという思いが「辿りつきけり」に現れている。「夜の秋」という季語は、立秋前に秋の気配を感じる夜の季節感を表すものだが、ここに安堵の気持ちを読み取ることができる。
現役で働いている人々、子育てに振り回されている人々には、こうした人生の夏の作品を大いに詠んでもらいたい。人生の今しかできない句を意識して作ってほしい。

 


向日葵を好みて笑顔至上主義
中津麻美

「笑顔至上主義」とは耳慣れない言葉だが、この句を読んであかんぼうの唯一の武器は笑顔である、ということを思い出した。悪人が危害を与えようとしても、無垢な笑顔に出会うと手を出せなくなるということは真実だ。どんな時も誰に対しても笑顔に勝るものはないと信じて生きている人をこう表現したのだろう。
向日葵という季語はつき過ぎのように思われるが、ではどの季語に語らせようかと考えても、これしか浮かんで来ない。その意味では多くを語っているのだ。

 

滝見茶屋客も主も耳遠く
影山十二香

滝見茶屋は滝の間近にあるので、ただでさえ人声は奪われやすい。その上、客も主も耳が遠いというのだから、どんな情景か想像するだにおかしい。しかしこうした場所でやりとりする言葉はだいたい決まっているのだから、聞き取りがたくても話は通じてしまうのだろう。本人たちは大まじめでも、傍から見ていると喜劇になる。そのいい例。

 

西馬音内盆踊り  行方克巳

立てかけしごとをちの滝こちの滝

山清水くねりつつ行く葛の花

爪に火を点す浮世を踊りけり

やさしうてごつうて男踊りかな

きはめつき男踊りの女かな

帰るさの彦左頭巾をはね上げて

暗がりに踊り崩れの二三人

踊り笠たたみて立てば蹴転けころめく

 

真葛原  西村和子

真葛原一刀両断単線路

突兀と顕れ上州の霧の山

朝霧の香を部屋深く肺深く

霧飛ぶやヒマラヤ杉は翼垂れ

蹂躙を咎めず許さず螢草

おほかたの事は赦され夢二の忌

草々の露踏み分けて画室訪ふ

邯鄲や風のささめきさへ怖れ

 

不 眠  中川純一

八月の芝を突つ切り三塁打

盆花を選りつつ頼りなき視力

蟬しぐれ浴びつつ句碑の女文字

句碑の文字判じて腕の蚊を叩く

おやこんなところに萩とふれてみる

新涼の手ごたへ画布の空色に

嬉しさの不眠もありて明易し

水引草咲いて血圧正常値

 

 

◆窓下集- 10月号同人作品 - 中川 純一 選

探幽の龍と翔びゆく昼寝かな
佐瀬はま代

湯引きして一瞬鱧の花開く
黒木豊子

帯きゅつと締め炎天に立ちむかふ
小野雅子

膝折りてこの鈴蘭を賞でし日も
村地八千穂

狛犬の背に傾ぎて濃紫陽花
村松甲代

朝顔の大輪風に浮き上り
山田まや

仲見世の裏手に購ひし団扇かな
黒須洋野

見せる人無き黒髪を洗ひけり
松井洋子

浅草の雑踏にゐて青鬼灯
島田藤江

たまさかは夫婦気の合ひ冷奴
川口呼鐘

 

 

◆知音集- 10月号雑詠作品 - 西村和子 選

鉾建の縄屑もまた匂ひ立ち
米澤響子

化粧室涼しゲランの瓶の青
牧田ひとみ

海芋咲く町のどこにも水の音
吉田泰子

十薬をきれいに残し寺男
大橋有美子

新橋をポンヌフと呼び巴里祭
吉田林檎

夏雲やキッチンカーは翼持ち
志磨 泉

ざら紙のやうな思ひ出梅雨じめり
中野のはら

涼しさや石の館に木の調度
井出野浩貴

一滴のすでに大粒大夕立
磯貝由佳子

遺失届書く首筋に額に汗
井戸ちゃわん

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

しんがりの大船鉾のもう見えず
米澤響子

祇園祭の後祭あとまつりのしんがりである。京都の祇園祭は元来前祭さきまつりと後祭の二回に分けて巡行が行われていたらしいが、このところ七月十七日に全ての山と鉾が巡行を行っていた。数年前に元の形に戻そうというので、後祭の巡行が復活した。私も久しぶりに後祭の巡行を見に行ったが、最後に登場する大船鉾の堂々たる歩みは感動的だった。
この句は「もう見えず」と言っていながら、祇園祭の全ての巡行の様子が眼裏に蘇ってくる。特に今年は三年ぶりに実施された巡行を、京都の人々はもちろん、全国の人々が心待ちにしていた。無事に巡行が終わったのを目の当たりにして、もう見えなくなった大船鉾の名残を惜しんでいる。

 


小児科の二階に眼科花うばら
𠮷田泰子

町医者の情景だろう。父親か母親が小児科医院を開業し、その二階に息子か娘が眼科を担当しているのだろう。大病院でないことを語っているのは「花うばら」の季語である。なんでもない郊外の光景だが、一読住宅街の個人医院だなということがわかる。そこが名医だとか、自分の世話になっているというわけではなく、見かけたままを詠んだ俳句。こんなことは俳句でなければ作品にはならないだろう。

 

春寒し対話の顔に口のなく
大橋有美子

疫病の流行で人と会うときはマスクを掛ける習慣が身について三年目となる。本来冬の季語であるマスクが無季のもののように詠まれ始めて久しい。この句は「マスク」という季語は使わず、そんな疫病禍の暮らしぶりと心情を詠んだもの。
対話するとき、目を見て声が聞こえれば不自由はなさそうに思えるが、口元の表情が見えないということは、考えてみれば心許ないものだ。同じ言葉でも、微笑みながら話しているのか、口を皮肉そうに曲げながら話しているのかわからない。その寒々しい心境を託しているのが季語である。

 

佐渡薪能  行方克巳

うちなびき草も青田もおけさぶり

峠越島にもありて花さびた

炎天を行く癋見がほ仏がほ

鳶の笛ひいよひよろと薪能

海山の間昏れ切り薪能

忘れ草咲いて忘れぬことひとつ

波音のとんどとんどと夏障子

鬼太鼓の里のいよいよ緑濃し

 

後 祭  西村和子

関ケ原越えていよいよ雲の峰

酌み交はしをるうち暮れぬ川床涼み

御神水なみなみ準備鉾を待つ

先触れの白鷺一羽鉾巡行

鉾巡行大路の緑突き抜けて

神宿りたり復活の鉾頭

朝日燦大船鉾の龍頭に

大船鉾仰げば雲の退りけり

 

鰻 重  中川純一

鰻重の方寸のまづ好もしく

兄事する人と鰻重並べ食ぶ

狼狽のごとき滴りたてつづけ

つんつんと一人前の目高の子

落としたる句帳たちまち蟻が検見

炎天や羊の群れが道塞ぎ

メロン切り父と娘の時戻る

ちよんちよんと文字摺草を描く絵筆

 

 

◆窓下集- 9月号同人作品 - 中川 純一 選

寛解の手足のびのび菖蒲風呂
黒山茂兵衛

晋山の散華さながら初夏の蝶
巫 依子

羅や今日一日は私の日
御子柴明子

麦秋やかなたに光る鳰の海
江口井子

ハンカチのアイロン掛けは好きな家事
小倉京佳

青葉昏ければ血潮の鎮まらず
井出野浩貴

時流には逆らはず生き昭和の日
折居慶子

あたたかや妻を励ます嘘少し
井戸村知雪

領事館跡を離れず黒揚羽
くにしちあき

腹の虫おさまるまでの草毟り
小池博美

 

 

◆知音集- 9月号雑詠作品 - 西村和子 選

園丁の去りジャスミンの香の残り
牧田ひとみ

魚の名訊き返しては島焼酎
藤田銀子

梅雨寒し寒しと母が又羽織る
影山十二香

緑蔭に坐す緑蔭に解くるまで
井出野浩貴

面差しの似てきし姉妹さくら餅
島田藤江

ふやけをり梅雨の茸も日輪も
高橋桃衣

薔薇の花疎みて第二反抗期
中津麻美

柏餅買うてアップルパイも買ひ
中野のはら

町医者の転勤知らず燕来る
島野紀子

網戸越し我も叱られゐるごとし
𠮷田林檎

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

水遊び母もスカートたくしあげ
牧田ひとみ

水遊びの情景は言うまでもなく、子供達が楽しそうに水を掛けあっているのだが、その子供達はまだ親の手を離れていない年齢ばかりだ。子供達の動きを描いているのだが、ふと気がつくとその子の母親もいつしか夢中になって、水の中に入っている。当然若い母親だから「スカートたくしあげ」という情景はどきりとさせる。
普通は子供の動きに焦点を当てるのだが、子供を連れて来た母親を描いた点で目新しい。当の本人は子供の世話に夢中になっているが、客観的な視線には眩い。

 


曾良眠るとりわけ青葉濃きあたり
藤田銀子

奥の細道の随行者として「奥の細道随行日記」を遺した河合曾良は信濃の出身だったが、壱岐勝本で客死し、その墓も当地にあるという。壱岐を訪ねた折の作であろう。九州本土から離れたこの島は、元々壱岐の国であった。俳人にとっては曾良の墓に心惹かれる。
この句は墓を訪ねたというよりも、遠望の作であろう。「とりわけ青葉濃きあたり」の描写はあるがままの写生であるが、曾良に寄せる思いの濃さも語っている。

 

 

囀や向ふ岸より笑ひ声
島田藤江

笑い声が聞こえてくるというのだから、声が届かぬほどの大河ではないだろう。春の陽気に誘われて、人々が川岸を散歩したり野遊びを楽しんだりバーベキューをしたり、という光景を想像した。若者達のグループから笑い声が起きた。川のこちら側でも同じような声が沸き起こっているに違いない。
そんなとき、此岸にも彼岸にもと両方描くのではなく、向こう岸の声に焦点を当てたことは巧みだ。空間の広がりや川の幅、囀が聞こえる空の高さなど描くことになったからだ。こんな光景に出会うと、人の心も明るくなる。

 

巴 里 祭  行方克巳

瞑りたる瞼火の色鑑真忌

膝送りしつつ拝み鑑真忌

くちなはの怒り全長強張らせ

今生のいまが過ぎゆくソーダ水

大首の団扇ぺかぺか鰻待つ

七月十四日来る彼の縊死以後も

パリの路地語り尽くして巴里祭

酔ひどれのタップ踏むなり巴里祭

 

涼 し  西村和子

駅頭の二輪車燦燦梅雨明けぬ

ペディキュアの粒色違ひ夏休

気象旗を襤褸と掲げ日々酷暑

日傘高く歩めば風に乗れさうな

鮎食ふや清談時に生臭き

弓なりに啼鳥迫り明易し

像涼し女人の祈り吸ひ上げて

夕焼や我が世のほかの人いかに

 

風の茅の輪  中川純一

麦青む一本道の果てしなく

漁師来て風の茅の輪をくぐりけり

粒揃ひ快気祝ひのさくらんぼ

竹落葉踏み観音に会ひにゆく

城山の蛇神様も代替り

蛇の子に稚の駆け寄る一大事

あられなき獣さながら蛇交る

青蜥蜴咥へ振り向きロシア猫

 

 

◆窓下集- 8月号同人作品 - 中川 純一 選

降りそめて彼方此方の夜の蛙
小野雅子

目まとひや愁ひ顔なる一羅漢
山田まや

片隅に風あるらしき代田水
津野利行

諭されて貰はれてゆく仔猫かな
前田沙羅

ぱつぱつの腿初夏のテニス女子
菊田和音

身のどこかいつも疼痛桐の花
島田藤江

丸窓の船窓めいて夏初め
小山良枝

母の日や花より団子てふ母の
染谷紀子

花海棠かつてこの家にあねいもと
黒須洋野

薄暑光エールを交す応援部
鴨下千尋

 

 

◆知音集- 8月号雑詠作品 - 西村和子 選

木香薔薇咲かせ何処にも行けぬ人
中野のはら

春手袋指先のはや薄汚れ
松枝真理子

劫を経てなほ疼くもの啄木忌
井出野浩貴

その根より低きに枝垂れ花吹雪
岩本隼人

滴りのちよと曲がりては落ちにけり
影山十二香

しやぼん玉追つて追はれて子の育つ
大橋有美子

転職の打明け話夏寒し
月野木若菜

ボタンかけずベルトも締めず春コート
三石知左子

目の前のことひとつづつ花は葉に
井戸ちやわん

釣釜の湯気の映ろふ春障子
山田まや

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

もう隠すものなどなくてチューリップ
中野のはら

チューリップの満開を過ぎた頃の姿。初めのうちは慎ましく蕾んで可愛らしく開き、赤白黄色と並んで子供達にも愛される花。子供が最初に描く花の絵でもある。しかし満開を過ぎると蕊を露わにして、慎みなどなくあっけらかんと開いている。そんな状態を「もう隠すものなどなくて」と描いたのは、わかりやすく本質をついている。無邪気といえば無邪気だが身も蓋もない。


変人と思はれ気楽亀の鳴く
松枝真理子

子育ても終わり、子供を通じた付き合いもなくなり、大人の交流が主になった、子供が成人した後の五十代の女性の句として注目した。周りからどうやら変人と思われているらしい。子育て最中は、それを取り繕ったり反省したり矯正したりしたものだが、一人の大人として付き合う分には、そう思われてかえって気楽だという気持に私は共感できる。
「亀鳴く」という季語は、聞こえる人にしか聞こえないやっかいなものだが、作者には聞こえるのだ。しかし俳句を作らない人達の中で、「こんな日は亀が鳴くのが聞こえそうね」などと口にしたら、周りの人は引いてしまうだろう。俳人にはそんなところがある。その自覚は喜ばしい。やっと自分が語れるようになったことも喜ばしい。

 

商談の相整ひて背ごし鮎
月野木若菜

「背ごし鮎」とは、釣ったばかりの鮎を船の上で刺身に料理したもので、新鮮な鮎が手に入らないと味わえない。京都の鮎の宿などでは食べたことがあるので、この商談はそうした場所か、あるいは東京でも高級料亭などでは最近は食することもできるのだろうか。
いずれにしても、この商談は数百万ではなく億を超えるものにちがいない。「相整ひて」という畏まった表現からもそれが想像できる。業界の第一線で働く女性として活躍中の作者ならではの作品。働く女性の現役中の作品を収めた句集『夜光貝』の延長上の句と言えよう。

 

青 嵐  行方克巳

青嵐天文台の森閑と

山椒魚のやうに息して息とめて

バードウィーク托卵といふ生きざまも

大南風はぐぐむ何もなかりけり

俑のごときつはものはあれ青嵐

いちまいの屏風仕立の白雨かな

木 馬 亭
書割の大川端に涼みけり

旅いつかいづくにか果つ青嵐

 

北 上  西村和子

山襞の奥も余さず田水張る

鹿踊り渦巻き渦解き青嵐

万緑や大河は音もなく走り

文学に敵も味方も晶子の忌

黒揚羽詩人の魂はこび来し

異界より呼ばふか蝦夷春蟬は

朴の花鬼剣ばいの白面ぞ

田植終へみちのく今日も上天気

 

初 夏  中川純一

稿了へて出る初夏の雨上がり

初夏や髪乾く間は海を見て

ゼラニウムあふれ中立国の窓

桜の実拾つて捨てて下校の子

あたふたと風呂の蠅虎けふも

酔ふ父も今は懐かし烏賊大根

烏賊一杯あれば一人の昼餉足り

寝て覚めて忘るるほどの青葉鬱

 

 

◆窓下集- 7月号同人作品 - 中川 純一 選

その先はただならぬ闇花篝
米澤響子

パスポート空白のまま西行忌
山田まや

明日咲く桜大樹の微熱かな
佐瀬はま代

花散るや五十回忌を淡淡と
前田沙羅

少年の脚また伸びて青き踏む
加藤 爽

春寒しワニ革ベルト吊し売り
前山真理

一日中雨の天気図桜餅
若原圭子

牡丹に飽かず佇み小糠雨
御子柴明子

うららかや岬めぐりの切符買ひ
藤田銀子

里山の風に乗りくる初音かな
前田いづみ

 

 

◆知音集- 7月号雑詠作品 - 西村和子 選

木香薔薇咲かせ鎌倉婦人館
前山真理

せがれにも外面あらむ蜆汁
井出野浩貴

麗かや本を枕に猫眠る
谷川邦廣

ユニホーム校門に待つ春休み
黒須洋野

剪定の今日はクレーンより高く
大橋有美子

花桃や婆や姉やのをりし頃
くにしちあき

川ふたつ超えれば旅や春の雲
牧田ひとみ

春の雲わが永住の地は未定
吉田林檎

春光に踏み出す一歩退職日
成田守隆

座布団も回しもピンク三月場所
中野のはら

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

初花や子等と遊びし日の遠く
前山真理

桜の花が咲き始める頃、陽気も春らしく安定し、人々の心も明るくなる。初めて咲いた桜の花を目にして、子育ての頃を思い出した句。
二人、三人と子供を育てていた最中は、毎日があっというまに過ぎて、時間的にも経済的にも心の余裕もなかった。しかしやっと外で遊べるようになった季節は、子供達と庭や公園で遊んだものだ。子供がおかあさんと遊ぶことを喜ぶ時期はほんのわずかだったと過ぎてみて思う。小学校に上がると友達と遊ぶほうが楽しくなり、中学に上ると男の子は母親から離れたがる。そんな思いを詠んだ作品として子育て経験のある誰もが共感を覚える。


ユニホーム校門に待つ春休み
黒須洋野

運動部のユニホーム姿であろう。授業のあるときはユニホーム姿で登校することはない。しかし春休み中なので家からユニホームを着て仲間を校門で待っているのだ。春休みに限ったことではなく、夏休みでも冬休みでもよさそうに思えるがそうではない。夏は暑いからもっと軽快な私服を着てくるだろう。冬は寒いからコートやジャンパーを着ているに違いない。時間的な余裕や宿題のない心のゆとりを考えると、この「春休み」は動かないのである。事実を見たままに詠んだ句であるが、季語が語っているところを存分に味わいたい。

 

花桃や婆や姉やのをりし頃
くにしちあき

桜でも梅でもなく桃の花から発想した句。どこかやぼったく親しみのある桃の花を見ていると、ひと昔前の時代へ心が誘われていく。
この句は自分の家に婆やや姉やがいたということを言っているのではなく、日本の中流階級に「婆や」や「姉や」と呼ばれる家事手伝いや子守がいた時代そのものを詠んでいるのだ。今では「お手伝いさん」とか「ヘルパーさん」、「ベビーシッター」という呼び方をしなけれならないのだろうが、「婆や」「姉や」という柔らかな親しみのある呼び名は捨てたものではない。

 

昭 和 の 日  行方克巳

閑居して不善なすなり花は葉に

花大根泳ぐごとくに少女らは

潮干狩追ひ立てられしごとく散り

潮干狩父をはるかにしたりけり

豊饒と鬱の五月の来りけり

パレットの緑あまさず五月来る

ほのぼのと昏れて昭和の日なりけり

元寇の昔ありけり水馬

 

懸 り 藤  西村和子

若葉跳ぶ横須賀線も久しぶり

沿線の若葉歓喜の声を上げ

雨霧のうすれきたりし懸り藤

切通しひとすぢ違へ懸り藤

展望の春山不変虚子御墓所

矢倉墓藤の散華の昨日今日

谷戸深き雫仰げば懸り藤

木下闇謎もろともに葬られ

 

潮 干 狩  中川純一

すぐそこに父の享年昭和の日

還らざる鉄腕アトム昭和の日

今もなほ五時にはチャイム昭和の日

少年は何でも博士潮干狩

ちょい悪のパパも家族と潮干狩

うつけ者なるぞよ山の蠛蠓は

いやらしく舌ひんまがり蝮草

飛花落花峯の薬師の鐘撞ける

 

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選

縫初や入歯となりし糸切歯
山田まや

母の雛子の雛飾り昼ひとり
高橋桃衣

露天湯の先は混浴山笑ふ
染谷紀子

焼べ足して話の続き春暖炉
森山淳子

峰々を結ぶ鉄塔山笑ふ
青木桐花

入日影鍬ふりあぐも春景色
吉田しづ子

鬼やらひ我が家に鬼は己のみ
折居慶子

山笑ふ孔雀は羽で息をする
影山十二香

駅弁の紐の薄紅春めけり
佐瀬はま代

早春や幼の三トン未だ取れず
村地八千穂

 

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選

二個焼いて二個とも我の雑煮餅
吉田林檎

人づてに訃音のとどき春の雪
井出野浩貴

希ふ窓の明るさシクラメン
高橋桃衣

学帽の角のふつくら春の風
志磨 泉

みづうみに中洲を残し鳥帰る
井戸ちゃわん

冬深し眠ることふと恐ろしく
山田まや

しわくちやの解答用紙冴返る
菊池美星

待ち合はす文楽劇場春の雪
岡本尚子

春の野を転がり帽子楽しさう
亀山みか月

をさな子の声沈丁を驚かす
立川六珈

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

言ひ訳にしはぶき咳に言ひ訳す
吉田林檎

「しはぶき」は動詞だろう。職場を休む時、約束が果たせない時、締切に遅れる時、言い訳をしながら咳をすると、電話口でも説得力が増す。そこまではよくあることだが、この句の後半は現在の疫病の世界的感染拡大と多いに関わりがある。会議室など人前で咳が出たとき、感染症ではないということを慌てて言い訳しなければならない。ちょっと水が喉につかえてとか、温度差に気管支が反応してとか、新型コロナの症状ではありませんよという言い訳を私達はずいぶんしてきた。
言い訳するときに咳をする。咳をしても言い訳をする。そのおかしさに興じた句。こんなことも現代の世情なればこそ俳句になった。


朝寝して六十九の誕生日
高橋桃衣

この句は六十代最後の誕生日という点が物を言っている。一般的には六十代の終わりといえば子育てはとっくに終わり、子供のために朝食を作ってやる母親の仕事から解放される。両親もすでに見送っている人が多い。「子供が終わると親に手がかかる」とは、私達女性がよく口にしたり耳にしたりしたことだが、親を見送った後は自分に手がかかる。六十九歳はそれまでにはまだ間があるといったところか。
朝寝をしても家族の誰にも迷惑をかけない。そんな時期が来たことを多いに楽しんでいる句だ。

 

脚本の手擦れ折癖鳥雲に
志磨 泉

脚本に手擦れがあったり折癖がついていたりする、ということは演劇人のものだろう。季語から察するに、これから上演されるものではなく、過去のものと思われる。どこかに展示されていたものか、自分のかつての活動に関わるものか。
「鳥雲に入る」という季語は、冬鳥が春になって北へ帰って行くときの様子をいうものだが、実際の景よりは月日の流れや人生の感慨を託す季語として用いられることが多い。こんなにまで脚本を常に手にして覚えたり確認したりした日々を懐かしんでいるのか、遙かに思いやっているのか。