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昭 和 の 日  行方克巳

閑居して不善なすなり花は葉に

花大根泳ぐごとくに少女らは

潮干狩追ひ立てられしごとく散り

潮干狩父をはるかにしたりけり

豊饒と鬱の五月の来りけり

パレットの緑あまさず五月来る

ほのぼのと昏れて昭和の日なりけり

元寇の昔ありけり水馬

 

懸 り 藤  西村和子

若葉跳ぶ横須賀線も久しぶり

沿線の若葉歓喜の声を上げ

雨霧のうすれきたりし懸り藤

切通しひとすぢ違へ懸り藤

展望の春山不変虚子御墓所

矢倉墓藤の散華の昨日今日

谷戸深き雫仰げば懸り藤

木下闇謎もろともに葬られ

 

潮 干 狩  中川純一

すぐそこに父の享年昭和の日

還らざる鉄腕アトム昭和の日

今もなほ五時にはチャイム昭和の日

少年は何でも博士潮干狩

ちょい悪のパパも家族と潮干狩

うつけ者なるぞよ山の蠛蠓は

いやらしく舌ひんまがり蝮草

飛花落花峯の薬師の鐘撞ける

 

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選

縫初や入歯となりし糸切歯
山田まや

母の雛子の雛飾り昼ひとり
高橋桃衣

露天湯の先は混浴山笑ふ
染谷紀子

焼べ足して話の続き春暖炉
森山淳子

峰々を結ぶ鉄塔山笑ふ
青木桐花

入日影鍬ふりあぐも春景色
吉田しづ子

鬼やらひ我が家に鬼は己のみ
折居慶子

山笑ふ孔雀は羽で息をする
影山十二香

駅弁の紐の薄紅春めけり
佐瀬はま代

早春や幼の三トン未だ取れず
村地八千穂

 

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選

二個焼いて二個とも我の雑煮餅
吉田林檎

人づてに訃音のとどき春の雪
井出野浩貴

希ふ窓の明るさシクラメン
高橋桃衣

学帽の角のふつくら春の風
志磨 泉

みづうみに中洲を残し鳥帰る
井戸ちゃわん

冬深し眠ることふと恐ろしく
山田まや

しわくちやの解答用紙冴返る
菊池美星

待ち合はす文楽劇場春の雪
岡本尚子

春の野を転がり帽子楽しさう
亀山みか月

をさな子の声沈丁を驚かす
立川六珈

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

言ひ訳にしはぶき咳に言ひ訳す
吉田林檎

「しはぶき」は動詞だろう。職場を休む時、約束が果たせない時、締切に遅れる時、言い訳をしながら咳をすると、電話口でも説得力が増す。そこまではよくあることだが、この句の後半は現在の疫病の世界的感染拡大と多いに関わりがある。会議室など人前で咳が出たとき、感染症ではないということを慌てて言い訳しなければならない。ちょっと水が喉につかえてとか、温度差に気管支が反応してとか、新型コロナの症状ではありませんよという言い訳を私達はずいぶんしてきた。
言い訳するときに咳をする。咳をしても言い訳をする。そのおかしさに興じた句。こんなことも現代の世情なればこそ俳句になった。


朝寝して六十九の誕生日
高橋桃衣

この句は六十代最後の誕生日という点が物を言っている。一般的には六十代の終わりといえば子育てはとっくに終わり、子供のために朝食を作ってやる母親の仕事から解放される。両親もすでに見送っている人が多い。「子供が終わると親に手がかかる」とは、私達女性がよく口にしたり耳にしたりしたことだが、親を見送った後は自分に手がかかる。六十九歳はそれまでにはまだ間があるといったところか。
朝寝をしても家族の誰にも迷惑をかけない。そんな時期が来たことを多いに楽しんでいる句だ。

 

脚本の手擦れ折癖鳥雲に
志磨 泉

脚本に手擦れがあったり折癖がついていたりする、ということは演劇人のものだろう。季語から察するに、これから上演されるものではなく、過去のものと思われる。どこかに展示されていたものか、自分のかつての活動に関わるものか。
「鳥雲に入る」という季語は、冬鳥が春になって北へ帰って行くときの様子をいうものだが、実際の景よりは月日の流れや人生の感慨を託す季語として用いられることが多い。こんなにまで脚本を常に手にして覚えたり確認したりした日々を懐かしんでいるのか、遙かに思いやっているのか。

山  笑  ふ  行方克巳

春泥の頃となりけり深轍

そつぽ向く子の頬つぺたの春の泥

創業の遺訓棒読み新社員

起こさるることなく覚めし朝寝かな

アスパラガスまた茹ですぎてしまひけり

まんさくや見ての通りの為人

クレヨンのみどりさみどり山笑ふ

蓬餅冷たし遠き野に砲火

 

春 休  西村和子

ゆきずりの傘さしかけて初桜

咲きかかり時を止めたる桜かな

遠目には源平桃の緋が勝てり

駅に待つ少年ふたり春休

辷る跳ぶ這ふ影交叉水温む

惜しみなき初音にペンを擱きにけり

大粒の雨が来さうよ犬ふぐり

いちめんの落花踏みしむ門出かな

 

梅 東 風  中川純一

雄鳩のきよとんと振られをりにけり

水温むどこか何かが揺れてゐて

啓蟄やアダムの肋イブを生み

春昼の何も懸からぬ壁の鋲

なるほどと姫踊り子の花に寄り

鈴つけてよその猫来る蝶の昼

残りゐる命をしめと山笑ふ

     野田 亮  博士
梅東風や同期の学徒師と仰ぎ

 

◆窓下集- 5月号同人作品 - 中川 純一 選

名のみ知る父の異母妹石蕗の花
井出野浩貴

案の定餅熱すぎて利かん坊
井内俊二

雪晴れの樹影すつくと立ち上がる
折居慶子

賓頭盧様黒黒在す春障子
永井はんな

胃カメラの胃の泡立てる余寒かな
小倉京佳

人体の骨の二百個春を待つ
前田沙羅

薄雪をきりりと纏ひ初比叡
野垣三千代

早春や海の鼓動に波光り
牧田ひとみ

女正月銀座の稲荷に待ち合はせ
前田いづみ

寒晴の空き缶蹴れば音高き
中津麻美

 

◆知音集- 5月号雑詠作品 - 西村和子 選

ユダヤ人墓地誰が踏みし霜柱
井出野浩貴

セーターは真つ赤聖夜のジャズライブ
中野のはら

紀ノ川を渡れば生家冬霞
志磨 泉

初仕事上程ひとつ通したる
月野木若菜

地吹雪や助手席の子も眼を凝らし
石原佳津子

蝦夷の空ひたすら蒼し花さびた
栗林圭魚

混迷の世を受験子のよく眠る
栃尾智子

餅花や土間の高きに明り取り
野垣三千代

気の長き息子が一人五万米炒る
岡本尚子

雪だるま肩まで雪をかぶりをり
菊池美星

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

映すとは容るるにあらず冬の水
井出野浩貴

冬の水と言えば、中村草田男の、

冬の水一枝の影も欺かず

が思い浮かぶが、この句も同じような光景を目にして詠んだのだろう。枯れ切った枝の先まで克明に映している水面を見て、映すということは受容することとは違うのだということに気付いた。確かに全てをあるがまま映す水面であっても、それはものの表面だけで、全てを受け入れるという訳ではないのだ。
同じ冬の水を見つめて至り着いた考えであろう。寒気が張り詰めた緊張感、厳しさが伝わってくる。

 

プレートに椎間板に歪み冬
中野のはら

プレートには様々な意味があるが、地球の表層部を覆う板状のブロックと受け取った。地球の表面には数十個の大陸プレートと海洋プレートがあって、日本の地下深くには四つのプレートが重なり合っているそうだ。そこに歪みが起きると、地震や津波に襲われるというわけだ。「椎間板」は脊柱に連なる椎骨と椎骨との間にある円盤状の組織。これに歪みや損傷があると、椎間板ヘルニアが起きたり坐骨神経痛が起きたりする。地球上の歪みと人体の歪みとを思い合わせて人生の冬を実感した句。
最近は大きな地震や津波が多く、私達も地球の地層の動きに影響を受けていることを実感している。また、若い時には滑らかで頑健だった体の節々に、軋みを覚えたり痛みを感じたりすることが多くなった。体の衰えを嘆くのではなく、気宇壮大に地球のプレートに思いを馳せ、そこで生かされている生物である自分の肉体を並列して詠む気概は、俳句ならではのものだ。

 

花菜漬添へ新橋の定食屋
月野木若菜

春になれば花菜漬を添えるという季節感は日本料理の常識だが、この句は料亭や割烹といった店ではなく、サラリーマンが昼食に利用する「新橋の定食屋」である点が面白い。私も五十年前新橋に勤めて、昼食は定食屋によく行ったので覚えがあるが、その頃は五百円のメニューで満足したものだった。そんな庶民的な店でも、季節の香のものがちょっとつくという点に日本の味覚の文化をみる思いがする、と言ったら大げさだろうか。

足らざるごとく  行方克巳

十本の鉛筆たのみ受験生

受験票すぐ皺々にしてしまふ

うすらひの欠片夕凍みそめしかな

しらうをや十全は足らざるごとく

寒きこと告げしや手話の五指胸に

わらわらと燃えて目刺の目なりけり

焼海苔をばりばりバレンタインの日

独酌のあての如くに春の雪

 

水 彩  西村和子

菜の花を分け多摩川の大曲り

菜の花や関東ローム層湿し

水彩のまじり気なしの花菜の黄

晴の日も長靴はいて花菜風

菜の花やけんか相手のゐなくなり

菜の花を挿し貧厨に壺ひとつ

菜の花を挿して明るむ流し元

菜の花の茎太々と水を揚げ

 

しやぼん玉  中川純一

しやぼん玉抱きかかへんと跳ぶ子かな

水替へて目高にそつぽ向かれたる

すれちがひざまの眼差春寒し

冴返る刑死腑分けの場と標し

春ショールダルメシアンを引き連れて

早春や欅の木末雲を梳き

早春や笑めば雀斑のびちぢみ

早春や鏡よ鏡何と云ふ

 

◆窓下集- 4月号同人作品 - 中川 純一 選

下り立てば夫の待ちゐる雪の駅
吉澤章子

上客に帽子を取りてシェフ御慶
三石知左子

枯野ゆく松明高くかかげばや
井出野浩貴

初旅とて白寿を祝ひ我が許に
村地八千穂

月昇る羽子板市も店じまひ
江口井子

傘の雪しづらせ長き御慶かな
石原佳津子

天辺の星みつからぬ聖樹かな
森山栄子

しみじみと齢を思ふ明けの春
前田星子

竹箒立て掛けてあり大枯木
林 良子

おろかしき遠吠つづく寒夜かな
米澤響子

 

◆知音集- 4月号雑詠作品 - 西村和子 選

枯園にさつくりと割るカレーパン
米澤響子

ファーブルの貧しき暮らし冬林檎
井出野浩貴

冬銀河ルオーのイエス眉太き
島田藤江

冬晴やゆつくり歩くのは苦手
高橋桃衣

倫敦より明治は遠し漱石忌
藤田銀子

亥の子餅添へ借覧の書を返す
山田まや

島に生き早や十年や波の花
菊池美星

しぐるるやただいまと言ひ灯す部屋
吉田林檎

初神籤誰も日向に開きをり
中津麻美

今時の子はと言ひかけ咳けり
塙 千晴

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

寒林の樹液とくとく星しんしん
米澤響子

「とくとく」は命の鼓動、「しんしん」は広大な夜空と静けさを表す言葉。擬音語とも擬態語ともとれるが、一見枯れ切った木々や動きのない木々の幹の奥に流れる樹液の音を聞きとった。星そのものは音を発しないが、しんしんと冷えてくるとか、しんしんと静まり返ったとか言う場合に用いる表現なので、聴覚ばかりでなく体感にも訴えてくる。
これも写生の一つなのだ。寒中の木々のありようや大気の冴えた様を言葉で描くとこのようになる。音読してみるとその効果が一層わかるだろう。

 

父のことつくづく知らず冬の月
井出野浩貴

お父さんが亡くなってしばらく時が経ったが、その後の手続きや遺品の整理などを手掛けているうち、一番身近な存在であったはずなのに知らないことばかりだということに気付いたのだろう。その思いを語っているのが冬の月だ。煌々と冷たい光をはなっている冬の月は、他の季節の月よりも遙かに遠い存在だ。思えば私達は両親のことをどれほど知っていただろう。そんなことを読み手に思わせる力がある句だ。別に親子関係がうまくいってなかった訳でもない。むしろ父の思いは誰よりも知っていると思っていたし、その期待に応えても来た。だからこそ亡き今になって、「つくづく知らず」と思い知ったのである。
男性にとっての父を思う俳句と女性にとって母を思う俳句とは、おのずから違ってくる。この句は前者の代表的作品といえよう。

 

佳き酒の届きし夕蕪鮓
島田藤江

いかにも酒好き、美食家の句だ。自分で買ってきた酒ではなく、地方からおいしい地酒が届いたのだろう。これを楽しむには蕪鮓が一番だ。そう思って蕪鮓は買ってきたのだろう。しかしあくまでも主役は酒、蕪鮓はつまに過ぎない。味覚に訴えてくる心憎い作品だ。

フェイク  行方克巳

ほつこりとしてむくつけき冬芽かな

ひとつつふたつすなはち無数冬木の芽

葉牡丹の渦のむらさき濃むらさき

北風に首根つ子掴まれてゐる

寒鴉擬傷のごとく羽曳いて

豹柄のフェイクの男息白く

三叉路の次も三叉路空つ風

人形の家の顛末冬銀河

 

水晶体  西村和子

まなうらに凍蝶明滅手術果つ

手術台椅子に戻りて大地冬

テレビ見ず着信読まず春を待つ

点眼の時刻違へず日脚伸ぶ

目つむれば異国の湖辺冬ごもり

寒満月術後の視界あらたむる

寒月も水晶体も濁りなし

寒の内半眼に日をやりすごし

 

冬から春へ  中川純一

一人湯の肩をこつんと柚子ひとつ

自画像の仏頂面に御慶かな

起きてきし娘とまづは御慶かな

配達のゲラを受取り御慶かな

敬礼を添へて守衛の御慶かな

仏壇の塵を払ひて悴める

悴んで見上げ電光掲示板

春近きスカート丈に女生徒ら

 

◆窓下集- 3月号同人作品 - 中川 純一 選

転んでも平気な子供初氷
小山良枝

雪吊の縄垂らしたるまま昼餉
吉田しづ子

河豚を競るええかええかと目に聞いて
山本智恵

命綱なぶるビル風十二月
井出野浩貴

河豚料理また語らるる三津五郎
鴨下千尋

先師の句心に落葉踏みゆけり
山田まや

白障子穴から犬の鼻のぞく
高橋桃衣

奥宮の巨石憮然と冬に入る
米澤響子

両岸の紅葉に応へ船下り
黒羽根睦美

飾り物もうちよいと欲し熊手市
小野雅子

 

◆知音集- 3月号雑詠作品 - 西村和子 選

寝返りを打てず眠れず夜寒さよ
高橋桃衣

飾りつけ終へし聖樹の所在なげ
くにしちあき

湯豆腐や父逝き母逝き戦後逝き
井出野浩貴

笹鳴に視線移せば飛び立ちぬ
谷川邦廣

ムートンの敷かれ聖夜の予約席
中津麻美

大根をおろすや肩を怒らせて
井戸ちゃわん

ふり返りたれば錆色冬紅葉
前山真理

一行詩書く日もあらむ日記買ふ
黒須洋野

松原の一歩一歩に秋惜しむ
清水みのり

ポインセチア白墨の粉ふりかかり
小倉京佳

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

秋寂し三食昼寝付きなれど
高橋桃衣

「三食昼寝付き」とは専業主婦の恵まれた境遇を揶揄する言葉としてひところ流行った。しかしこの句は今月号の他の作品を見ると、怪我で入院をしたときのものであることが察せられる。入院中はたしかに安静を保つために三食昼寝付きである。一日を楽に過ごすことができるのに、この寂しさはどこからやってくるのだろう。
この句はもちろん家事以外に仕事を持たぬ主婦の句としても鑑賞することができる。子育て最中は忙しさに追われ、三食も自分で準備するわけだから、専業主婦がそれほど気楽な生活とは思っていなかった。しかし子供にも手がかからなくなり人生の秋を迎えるころ、傍目には幸せこの上ない境遇でも、もの寂しさを覚える主婦は結構多い。その点が同じようなニュアンスの季語である「春愁」とは違うのだ。

 

職退きて子育て終へて日記買ふ
くにしちあき

こちらは仕事をしながら子育てをした女性の句である。上五中七までは自分の境遇を改めて思い返している。働き盛りも子育ても過去のものになった今、「日記買ふ」とはどういう心境なのだろうと改めて思わせる句だ。仕事の覚書や手ごたえ、子育ての喜びや悩みを書きつけるのではなく、自分自身の今とこれからを書くための日記であることに思い至る。
この句を読んで、吉田健一の『餘生の文學』を思い出した。若いときには試験のためとか仕事のためとか、何かに役立てるために文学に親しんだものだが、実社会との関係が無くなった余生にこそ真の文学の楽しみがある、と書かれていた。「餘生があつて文學の境地が開け、人間にいつから文學の仕事が出来るかはその餘生がいつから始まるかに掛かつてゐる」。

 

生真面目な者に任せて蔓たぐり
谷川邦廣

「蔓たぐり」とは収穫が終わった後の枯蔓を手繰り寄せて抜くこと。瓜類や豆類などの収穫をしたことのある人には、これも大事な作業の一つとわかるだろう。枯蔓の先に末生りがついていたりするので、それも採らなければならない。甘藷の収穫でも、蔓たぐりの作業は大切だ。しかしこの句は、そんな面倒くさいことは生真面目な者に任せるというわけだ。一読笑いがこみ上げる作品だ。こうは思っていても、なかなかずばりと言うことはできないものである。作者の性格も表れている句といえよう。

人 日  行方克巳

二上山はいろせの山や初茜

甚五郎噺水仙活けながら

初雀図々しくて臆病で

首痛きまで北風に真向へり

お日さまがにこにことゐる空つ風

人日の日ざしあまねく抱き枕

人日や情死のごとく足揃へ

人日のあからさまなる独り言

 

小 盃  西村和子

年神を招く全階灯りけり

あらたなる年を賜はる小盃

灯しても暗しと思ふ初鏡

もののけの跡か山茶花垣に沿ひ

初雪や打菓子舌にほの温く

霜の声断つカーテンの襞深し

落葉踏み陸の孤島の劇場へ

落陽に焙り出さるる冬紅葉

 

年の湯  中川純一

冬の蠅従へ鼻の利く男

冬晴や飛行機雲の尾が透けて

黄落を浴びつくさんと瞑れる

梟に聞く人類の絶滅を

飛んで過ぐ車窓の巷年詰まる

年の瀬のある日師と遭ひ息と会ふ

数へ日の墓に向かひし小半時

年の湯に浸りて顧みたる旅

 

◆窓下集- 2月号同人作品 - 中川 純一 選

百歳を天寿ときめて菊枕
山田まや

病室に無音の時間秋しぐれ
原 川雀

呆然と障子明りに脱ぐ喪服
森山淳子

茶が咲いてここら一揆の馳せし道
島田藤江

茶の花やひよこ饅頭買うて訪ひ
石原佳津子

百ヶ日終へて小春の海を見に
山本智恵

冷やかや鏡の中の我と我
村地八千穂

また同じ絵本を開き星月夜
山﨑茉莉花

法螺の音に深秋の嶺々つまびらか
中田無麓

蟷螂の不動なること小半時
林良子

 

◆知音集- 2月号雑詠作品 - 西村和子 選

ドレープの襞の影濃く冬館
影山十二香

抽斗に眠る歳月つづれさせ
井出野浩貴

通院が即ち散歩鰯雲
井戸ちゃわん

連山の影の漆黒後の月
成田守隆

未だ子の帰らず夜なべはかどらず
松枝真理子

座布団の家紋大きく走り蕎麦
中津麻美

冬支度頬摺りしたきものばかり
立川六珈

織り溜めし布捨て難き夜なべかな
伊藤織女

水匂ふ高さに群るる蜻蛉かな
山田まや

包丁にぶら下がりたる南瓜かな
森山栄子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

縁側のありしは昔今日の月
影山十二香

日本の家屋の形態の歴史を説明しているのではなく、お月見の個人的な思い出を語った句である。昔はどの家にも縁側があって、十五夜ともなれば芒や月見団子をそこにのせて家族も月を眺めたものだ。作者も子供の頃にはお父さんお母さんと一緒に、お月見の意味など教えられながら縁側に足をぶらつかせて満月を眺めたのだろう。ところが今の日本の家は縁側がなく、サッシの窓で守られていることが多い。大風や大雨のとき雨戸ががたがた音を立てたり、ガラス窓が震えたり、隙間から雨が降り込んだりすることはなくなったが、縁側がなくなった家屋はなんとなく物足りない。
この句は十五夜の際に満月を目の当たりにしながら、昔の思い出が二重写しになっている点、重層性がある。

 

見せに来るからから木の実鳴らしつつ
井戸ちゃわん

木の実を鳴らしながら見せにくる主体は省略されているが、子供であろうと容易に想像がつく。こんなに大きな木の実があったとか、めずらしい形を見つけたとかいうときは、子供は必ず両親や祖父母や先生に見せたくなる。この句の場合はたくさん拾ったことをほめてもらいたいのかもしれない。俳句ではこのように何時、何処で、誰が、何故、を省略しても季語が情況を語ってくれるのである。

 

五輪旗の残りて秋の街静か
成田 守隆

いかにも東京を生活の場としている人の句である。去年の東京オリンピックが終わった後は、テレビや新聞も報じなくなった。しかし東京の街を歩いていると、祝祭の名残のように旗や看板が残っていた。それを目にして、あれほど騒いだ東京五輪も終わってしまったなあという思いをことさら抱いたものである。「街静か」は事実を述べたにすぎないが、一抹の淋しさと、コロナ禍での開催が無事終わったことの安堵感が漂っている。

一昨日の冬  行方克巳

人影のさして萍紅葉かな

紅葉且散る石のうへ水のうへ

紅葉山夜々の漆黒塗り重ね

まなうらの黄葉濃紅葉ねむりても

日めくりの一昨日の冬立ちにけり

筏なししがらみなして散紅葉

綿虫や煤け給ひて祇王祇女

冬紅葉むさぼりし夜の盗汗かな

 

無 力  西村和子

冬ごもり根菜刻む摺る叩く

金星を吊り黄落の葡萄棚

冬草を被り果樹園養生中

石蕗の花脚下照顧といふことを

短日や煮炊忘れてもの書けば

とり消しの線の濃淡古暦

灯寒し誰も帰つてこない家

極月やもとより俳句無力なる

 

鷹の影  中川純一

木漏れ日踏み落葉を踏んでついてゆく

追ひ越してゆきしは鷹の影ならむ

いつ来てもいつもの守衛木の葉散る

茶の花の咲けば応へて水光る

毘沙門天訪へばいくたび時雨紅

露天湯の足をくすぐり散紅葉

冬朝日天橋立濃くしたる

冬蜂と天橋立股のぞき

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

秋日和通勤電車にて入院
松井秋尚

きちきちの跳んで将軍流離の地
井出野浩貴

鮭遡上石狩湾を引きしぼり
佐藤寿子

名月や地球大きな観覧車
橋田周子

風を食む埴輪の馬や天高し
吉澤章子

鳥渡る薄目をあけて赤ん坊
中野のはら

秋の蠅飛ぶこと忘れ俎に
小島都乎

尾を立てて犬も潜れる茅の輪かな
松井洋子

追憶は供養なりけり温め酒
佐瀬はま代

河童出る沼のほとりの曼殊沙華
吉田しづ子

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

秋刀魚焼く日曜暮るるむなしさに
井出野浩貴

色鳥やバター香らせ家を守る
志磨 泉

月今宵鉛の兵隊踊り出す
くにしちあき

鰯雲東京タワーピンで留め
栃尾智子

ひよんの笛吹きて淋しき男かな
影山十二香

西瓜切り並べて野外コンサート
山田まや

ワセリンを戸棚に探す夜寒かな
松枝真理子

虫の声違へ玄関勝手口
月野木若菜

水玉のスカート咲かせ夏座敷
加藤 爽

芋虫のどくんどくんと進みゆく
磯貝由佳子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

虫の夜の孤島めきたる机かな
井出野浩貴

秋の夜更、虫の音を聴きながらひとり机に向かっている。本を読んでいるのか、ものを書いているのか、俳句を作っているのかさまざまに想像されるが、いずれにしても孤独な作業なのである。その思いがいつしか虫の音に取り囲まれて一人だけ孤島にいるような気がしてきたのだ。夜更に虫の音しか聞こえてこないという発見はよくあるが、そこから更に踏み込んで、「孤島めきたる机」と焦点を絞り込んでいるところがこの句のポイントだ。家でも部屋でもなく、机を孤島と感じているのは、孤独な作業をしている人ならではの実感である。発想はよくあることでも、どこまで深めて作品にするかが大切なのだ。

 

先づ手熨斗かけて羽織りぬ秋寒し
影山十二香

「秋寒」「肌寒」「うそ寒」「そぞろ寒」「朝寒」「夜寒」などは、寒いという字が使われているにもかかわらず、すべて冬ではなく晩秋の季語である。この句はその体感を実に巧みに詠み上げている。そればかりでなく、「手熨斗」「羽織る」といった美しい日本語を適切に用いている。古い言葉のようだが、アイロンをかけるまでもなく手で畳み皺を伸ばすとか、羽織を着るのではなくカーディガンやショールを上から掛ける場合にも、こうした言葉は自然に使われている。この句を音読してみると、実生活では忘れられているような佳き日本語を、俳句の上で生かしたいとつくづく思う。

 

落栗や前世の記憶よみがへり
松枝真理子

飛躍のある不思議な作品だが、私達の脳内や胸中にはよく起こることなのではないか。毬栗が落ちた音、あるいは落ちている光景にふと古い記憶がよみがえる、あまりにも覚束ない記憶なので、もしかしたら前世のことだったのかしら、と思う。それにしても鮮明によみがえるものがある。
こんな突飛なことは他人に話すことではない。そんなとき俳句になるのだ。季語が動くのではないかとか、共感を覚えないとか言われるだろうが、そんなことは恐れなくていい。理屈ではなく、人に納得してもらうものでもない。詩的感興にはそんな特殊な領域があって、わかってもらえる人の心には響くのだ。

かりがね  西村和子

水引の点綴暮色はねのけて

ひとつづり水引草の気息凝り

木犀の香や門掃きの音につれ

終刊号追うて遺句集十三夜

初雁や持ち重りたる明日の糧

先達のたちかはりつつ雁渡る

撓みつつ遠ざかり消え雁の棹

ひと枝に六七八個榠樝の実

 

葡萄に種  行方克巳

螢の夜生前葬のはなしなど

螢火や千夜一夜のひとよにて

明滅の滅を数へて螢の夜

秋の夜やダミアの淵に竿さして

葡萄に種みそつ歯の誰彼となく

完膚なきまでに踏みつけ煙茸

二十五時くるみわり人形と胡桃

大拙といふ石ひとつ笹子鳴く

 

双頭の竜  中川純一

秋晴の麻布のここも大使館

色羽をつんと頭に小鳥来る

長き夜やされば男の料理など

茸飯帰りの遅き娘待ち

スカートのごとく注連縄銀杏散る

渓風に山家の数の女郎蜘蛛

冬連れてくる双頭の竜の雲

騒乱の雀のごとく渓落葉

 

◆窓下集- 12月号同人作品 - 中川 純一 選

いつの間に更地となりし西日かな
井出野浩貴

今朝の秋補聴器置けば小貝めく
山田まや

通院の夫に購ふ黒日傘
前田沙羅

一粒の力を信じ青葡萄
林 良子

葛の花引けばくれなゐこぼしけり
鴨下千尋

駅員と話してをりぬ帰省の子
吉澤章子

東京にいまだ郡あり葛の花
帶屋七緒

鍼灸に身をまかせたる溽暑かな
黒須洋野

み吉野の降りみ降らずみ葛の花
川口呼鐘

秋口の役所の壁に市民の絵
笠原みわ子

 

◆知音集- 12月号雑詠作品 - 西村和子 選

ねこじやらしヘッドライトに騒ぎ出し
大橋有美子

払へども払へども汗喪主なれば
井出野浩貴

なまなかな風には媚びず萩の花
中田無麓

隙あらば絡み付きたり灸花
栃尾智子

白雲をぐんぐん潜り鷹渡る
前山真理

小望月雲の波間の浮かびけり
小倉京佳

茎太く蒟蒻育ち夏旺ん
金子笑子

絵日記の雲は怪獣蚊遣り焚く
石原佳津子

人の子を預かり吾子を預け夏
津野利行

好物のメロンどつかり据ゑ一人
山田まや

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

黒南風や焦げ臭き音してきたる
大橋有美子

聴覚で捉えたものを、嗅覚で表現している。芭蕉が聴覚で捉えたものを視覚で表現した句は有名である。その点で、作者なりの挑戦が感じられる句だ。しかも梅雨どきの重たい南風を身に受けて、耳にした音が快適どころか異常な印象を受けたのである。季節の実感に支えられているという点でも、奇抜さを狙ったばかりの句ではないと言えよう。

 

目を凝らしたれば二羽増え雁渡る
前山真理

鷹の渡りを私は見たことがないが、この句を読んで現実味を感じた。鷹の群れに気づいた時点では「見る」であるが、「目を凝らしたれば」ということは、注視したということだ。するといままで大雑把に数えた数よりも二羽多かった。「増え」と言っているが、現実には途中から加わったのではない。見る側の姿勢によって数が増えたという発見が面白いのである。
私達は俳句を作るとき、大まかに見るだけでなく、凝視しなければならない。「言葉が浮かんで来るまで見つめていなさい」とは清崎先生の教えである。

 

休暇明黒板全幅使ひきり
小倉京佳

比較的新しい季語である「休暇明」を用いて、夏休み明けだということがすぐにわかる。講師という作者の職業によるものだろう。ながい休みが終わって、最初の授業に黒板の全幅を使い切ったとは、我ながら頑張ったとか、張り切っていると、改めて発見したのだ。休暇中、使われていなかった黒々とした黒板に、チョークの文字がくっきりとして見える。
事実は最近流行のホワイトボードにマーカーなのかもしれないが、鑑賞するときは黒板に白墨でありたい。板書する先生の力の込め方で、生徒は熱意と気迫を聞き取ったものである。

月幾夜  西村和子

    悼 深見けん二先生
かんばせの老いて涼しき大人うしなりき

小望月かの世の句座も始まるか

月しろや修道院の空不穏

陰膳の整ひたりし月今宵

名月やたまの帯なす六玉川

月明や地上に今も神隠し

冷蔵庫ひらけば灯るマスカット

子別れの鴉朝より声荒げ

 

生身魂  行方克巳

うそぶいて昔男や生身魂

なにがしの受領たるべく生身魂

ものを言ふ口元ほぐれ生身魂

痛いところどこにもないと生身魂

ささめごと昨夜のごとく生身魂

陰撫するごと墨磨れと生身魂

チョコレートはゴディバにかぎり生身魂

てんしきの五連発とは生身魂

 

濡れ縁  中川純一

灯りたる電車が滲み秋の暮

秋蝶の翅に大きな目のふたつ

糸瓜忌のわが濡れ縁の日差かな

ちゅと飛んで蠅虎はえとりぐもの馴れなれし

虫すだく教員室はまだ灯り

就中新酒の中の冷おろし

渡り鳥天気予報の空を飛ぶ

秋風や雲も背伸びを思ひきり

 

◆窓下集- 11月号同人作品 - 中川 純一 選

秋日傘今日の一歩へ開きけり
大村公美

送鐘一打のしがみつくやうに
米澤響子

風鈴や遺品と芥選りわけて
井出野浩貴

原爆忌都庁の窓を雲疾く
小倉京佳

夢二忌や女将と呼ばれ五十年
金子笑子

夏雲やコタンに残る蝦夷錦
佐藤寿子

素通りの縁切寺の蚊にさされ
永井はんな

菊花展巴の錦艶やかに
平野哲斎

船頭の顎で指したる浮巣かな
前田星子

梅雨明くる宵山の空押し広げ
板垣もと子

 

◆知音集- 11月号雑詠作品 - 西村和子 選

噴水の起承転結見届けぬ
志磨 泉

チボー家のジャック遥けし夏休
井出野浩貴

サングラス外し海風吸ひ込みぬ
くにしちあき

動物園何処にゐても椎香る
大橋有美子

裕次郎灯台目指し船遊び
栃尾智子

烏瓜秘技を尽して咲きにけり
米澤響子

草むしり不器用なれど几帳面
中津麻美

亀の子が玄関先に雨あがり
井戸ちゃわん

型紙を合はせじょきじょきあつぱつぱ
磯貝由佳子

嫌はれてしまへば気楽サングラス
天野きらら

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

帰省子の披露上腕二頭筋
志磨 泉

「上腕二頭筋」とはいわゆる力瘤。夏休みに久々に帰ってきた息子さんが、家族みんなに「見て見て、すごいだろう」と腕をあらわにして力瘤を見せつけているのだ。クラブ活動かアルバイトの力仕事か、親元を離れて数か月過ごした間に見違えるように日に焼けて逞しくなった我が子を見あげているのだ。当人は無邪気に自慢しているだけだが、親にしてみればあんなにひ弱だった子がと思うだけで感無量だ。
こうした光景はどこの家でも見られるかもしれないが、作者の人生にとっては今しか詠めない句だ。自分が育てた息子であるからこそ、小さい頃の思い出が二重写しになるのだ。また、親元を離れて過ごすことが初めての我が子であれば、親の心配は尽きない。

 

丹精の枇杷に疎漏な袋掛け
栃尾智子

町中でよく見かける枇杷にわざわざ袋掛けはしないので、園芸を仕事にしている人の枇杷かとも思われるが、最後まで読んでみると、やはり素人の庭先であることがわかる。それもたわわになっている枇杷ではなく、庭に数えるしかなっていない枇杷であろう。枇杷の花が咲くのは冬。それから何か月も経ってから実がなるのは、果物の中でも珍しく気長だ。その間、今か今かと実が太るのを楽しみに肥料をやったりしていたのだろう。やっと実が大きくなってきたというので、大事を取って袋掛けまで施した。それが疎漏というのではあまり役にたちそうにない。そんなところにおかしみを感じる句である。
「丹精」という言葉と「疎漏」という表現の対比がもたらす俳諧味である。

 

眼に効くと聞けば毎日パセリかな
井戸ちゃわん

家居が続くこの頃、人々の関心は内へ内へと向かっている。家中を片付けたり、健康食に凝ったり、免疫力を高めると聞けば買い込んだり。私達庶民の日常と人情を実によく表している句だ。テレビか新聞でパセリが眼に効くと知ったのだろう。老眼が気になってくる年代には、聞き流せない情報だ。折しもパセリが大安売りだったのだろう。たくさん買い込んできたものの、新鮮なうちに食べなければ意味がない。毎日食卓に上ることになる。だれもが思い当たることなので、この句から湧き上がる笑いは自嘲も含まれている。
私もスーパーでたくさんのパセリを買い込んだが、みじん切りにして容器に詰めて冷凍したところ、長いこと使えることに気付いた。ぜひお試しあれ。

乙 張  西村和子

秋蟬のとほき満ち干の未明より

供香よりひと日始まる濃龍胆

秋蟬の乙張めりはりも失せ呂律失せ

小気味よく水弾きけり秋茄子

束ねてもコードくねくね秋暑し

おしろいの花や病める児覗きをる

窓掛がゆらぎたるのみ家の秋

無花果や婚姻色を秘めゐたる

 

おしいつく  行方克巳

くびくくり坂の向日葵くびくくり

陸続として向日葵の絞首刑

朝顔や朝つぱらから死のはなし

テーブルの一点舐めて秋の蠅

ふと苦き思ひよぎれり桃を剥く

少しづつ夜の崖崩れ葛の花

今生のおせん転がしおしいつく

宗論のはてのだんまりおしいつく

 

子目高  中川純一

子目高を数へて話そつちのけ

一週間だけの長幼目高の子

朝顔を叩きゐし雨小休止

秣干す日高の秋日鋤き込んで

均されし空地に呆け猫じやらし

シャツの背にすがる啞蟬何とする

長雨に飽いてしもたと蚯蚓鳴く

新涼や母もたのみし手摺棒

 

◆窓下集- 10月号同人作品 - 中川 純一 選

一つ事念じて茅の輪くぐりけり
前田沙羅

馬の仔の膝のびのびと風の中
大橋有美子

形代に我が名楷書で記しけり
村松甲代

顔見えぬ乍らの会釈木下闇
村地八千穂

母の日を羨む父に父の日来
三石知左子

聖五月デルフト焼の藍の濃く
𠮷田泰子

梅雨深し検査ベッドに横たはる
池浦翔子

蜥蜴現る鎌倉殿の化身なり
藤田銀子

鬼やんまの目もて私を見てゐたる
山本智恵

汐の香の髪を解きてサングラス
橋田周子

 

◆知音集- 10月号雑詠作品 - 西村和子 選

スキップの子とすれ違ふ緑雨かな
吉田林檎

水の星讃へて鳰の浮巣かな
井出野浩貴

腸の捻れ戻りぬ青嵐
岩本隼人

黄金週間急に子の来てすぐ帰る
小池博美

嘘すこし混ぜるも本音半夏生
藤田銀子

聖堂の柱ひんやり日の盛り
くにしちあき

指図する母のいまなき盆用意
清水みのり

更衣老い先有りと疑はず
石田梨葡

夏来たり歩道橋より町眺め
立川六珈

草を引く腰をのばせばまだ半ば
平岡喜久子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

氷菓食ふ有給休暇取れし日は
吉田林檎

この句のポイントは最後の「は」である。この助詞一つで、作者の通常の暮らしぶりを語っているのだ。働き盛りの年代の人々は、有給休暇といえどもなかなか取れないのが現状だ。久しぶりに有給休暇が取れた日、アイスクリームを買って食べた。そのことが忙しい自分に対するご褒美でもある。贅沢なケーキや高価なワインなどではなく、「氷菓」であるという点に非常に親しみを覚える。欧米社会のようにバカンスが一ヵ月というような暮らしぶり、働き方は日本はまだまだ遠いのだ。

 

初節句この子いつでも泣いてゐる
小池博美

初節句であるからには、親族の赤ちゃん、お孫さんであろう。孫を詠んだ句に佳句は少ないが、この句は孫可愛さの句でない点目を引いた。「この子いつでも泣いてゐる」とは、おばあちゃんの句としてはかなり冷静で突き放した詠みぶりである。もちろん口に出して言えることではない。しかし生まれてまもない赤ん坊というものはこんなものである。初節句を喜んでいるのは両親とその両親たちばかり。着慣れないものを着せられて、普段いない大人たちに覗かれ抱かれ、かわいい、かわいいと言われても当人は居心地悪いことこの上ない。孫がかわいいのは万人共通のことだが、自分だけにかわいいのであることを孫俳句の作り手はどこかで意識していなければならないと、自戒をふくめて常々思っている。

 

底紅やふと妹の幼顔
清水みのり

「底紅」とは花の底だけ紅く、はなびらは白い木槿のこと。多分幼いとき暮らした家に咲いていたのだろう。白木槿よりも印象的であるし、かわいげがあるので、妹と遊んだ記憶と結びついているのだ。その花を見たとき、現在の妹ではなく、幼いときの妹の顔が思い浮かんだ。言うまでもなく作者自身も幼かりし頃、両親も若かった頃。昔から変わらない花には人々の記憶と結びついている背景があるのだ。その点でこの句の季語は動かない。

待ち伏せ  西村和子

首すぢに大暑の初光刺さりけり

垂直の千の沈黙青葡萄

向日葵の待ち伏せに会ふ夜道かな

短夜の寝覚の水腥き

短夜の川より衢明けにけり

川風に明易の床浮くごとし

落蟬やわが戸叩きてこときれし

子へものを書けば遺書めく夜の秋

 

山椒魚  行方克巳

ロック座の裏に目高を飼ふ男

山百合を抱へて死者に逢ひに行く

夏炉焚くシェヘラザードの物語

蛍火や千夜一夜のひとよにて

明滅の滅を数へて蛍の夜

あとかたも残さざるべく蛍の夜

汕頭のハンカチーフのやうな嘘

似てゐると思ふ山椒魚とわれと

 

流れ星  中川純一

母馬を見つつ仔馬の試し駆け

吹き上ぐる海霧に嬲られ蝦夷黄菅

連射砲めきし打水馬鈴薯へ

恋螢はらとこぼれてついと舞ふ

流れたる星の尾を断つマストかな

短夜の聞き慣れぬ鳥さつきから

託児所の満艦飾の星の笹

寝冷えしていつのも台詞パパ嫌ひ

 

◆窓下集- 9月号同人作品 - 中川 純一 選

雲蹴つて蹴つてあめんぼ雲の上
高橋桃衣

刻刻と樗の花は灯の色に
吉田しづ子

梅雨鯰己が濁りに隠れけり
福地 聰

ソーダ水裏腹なこと言ひ続け
岡本尚子

かくて二人黙々と枇杷啜りけり
鴨下千尋

母に添ひ歩行訓練夏木立
月野木若菜

風不死も恵庭も夏の霧の中
中野のはら

梅雨晴の内地より来て蝦夷の雨
永井はんな

神殿の眼下五月の地中海
大野まりな

桜蕊降る棟梁の大工箱
志磨 泉

 

◆知音集- 9月号雑詠作品 - 西村和子 選

其の人も同じ鉢買ひ桜草
山田まや

吹流し漁師継げよと言はねども
藤田銀子

軽鳬の子がゆく横になり縦になり
井戸ちゃわん

ラーメンに玉子を落とす昭和の日
吉田林檎

我がための新茶を買うて帰りけり
磯貝由佳子

古民家と呼ぶには廃れ花楓
石原佳津子

父の日の子よりの電話妻が待つ
福地 聰

ハンカチを結びて母の旅鞄
乗松明美

余り苗にも山越しの余り風
中田無麓

蟇ちょつと苛めてみたくなる
高橋桃衣

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

見舞はざることも有情や春の月
山田まや

疫病流行の時節柄ということも考えられるが、この句はもっと深い情を語っていると思う。病気であることを知ってすぐにも見舞いたい間柄なのだろうが、あえて見舞わない。それは情がないということではなく、あえて見舞わないことも情があることなのだ、という句である。春の月を眺めて、病室からもこの月を眺めているであろう病人を思いやっている。八十代後半の作者の年齢を考えると、病んで衰えているときにその姿を見られるのは、自分でも望まないことであろう。だからこそこうした句が生まれたのであろう。人生経験を重ねた人には共感を呼ぶ作品である。

 

喜ぶも呼ぶも拒むも囀れる
吉田林檎

先日「ダーウィンが来た」を見ていたら、小鳥たちの鳴き声にも言葉と同じような意味があるらしい。人間の耳には同じ囀りとしか聞こえないが、警戒を発しているとき、餌のありかに呼んでいるとき、愛の表現、それぞれ使い分けているということだ。この句を読んでそれを思い出した。
「囀り」という季語は、鳥の恋の季節が春なので春のものになっているが、大雑把に恋の季節とはいっても、喜んでいるとき、呼びかけているとき、拒んでいるときがあるだろう。作者の耳にはそれが聞き分けられているのかもしれない。

 

新茶汲む今なら母と何語らん
磯貝由佳子

お母さんはもうこの世にいないのだろう。作者は今年還暦、新茶をゆっくり味わいながら、お母さんのちょうどこの年齢のころを思い出したのだろう。あのころ自分は若かったから、お母さんが何を思っていたのかわからなかった。今自分がこの年齢に達して、子供もあのころの自分と同じ年代になった。今お母さんが元気でいたら、子育てのこと、人生のこと、何を語るだろうか。そんな心の余裕を語っているのが季語である。子育てに必死だったころ、生活し盛りだったころには、新茶をゆっくり味わうというような時間も心の余裕もなかった。