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窓下集 - 9月号同人作品 - 西村和子 選

薫風や蘭陵王面脱ぎたまへ    吉田あや子
山城へ裏道とりて朴の花     前田 星子
寝転んで読む癖いまも桜桃忌   米澤 響子
黒揚羽前世王妃か傾城か     井出野浩貴
夏兆すオープンカーに犬乗せて  栃尾 智子
木雫を落とす技あり梅雨鴉    井内 俊二
船揺るるソフトクリームとろけさう 井戸ちゃわん
鉄橋の音は郷愁草茂る      磯貝由佳子
足るを知るまでに至らず新茶汲む 津田ひびき
万緑や大阪城は色褪せず     寺島 英子

知音集 - 9月号雑詠作品 - 行方克巳 選

ほんのりとしやぼんの香り濃紫陽花 山本 智恵
尼寺の小さき礎石や秋の声     栗林 圭魚
ブリューゲル展出でてうつつの梅雨の町 江口 井子
赤潮や龍宮の色溶け出して     鈴木 庸子
声にして師の句碑なぞる日の盛   島田 藤江
蛇衣を脱ぐ悪妻のよく眠る     津田ひびき
水上バイクしぶきの翼広げゆく   大塚 次郎
四十年暮らして迷子路地若葉    久保隆一郎
片脚のぶらんと垂れてハンモック  中川 純一
噴水の音を束ねて止まりけり    松井 秋尚

紅茶の後で - 9月号知音集選後評 -行方克巳

ほんのりとしやぼんの香り濃紫陽花 山本 智恵

この句の上五中七は勿論下五に掛かっている。そうすると、紫陽花の花に、しゃぼんの匂いがした、ということになる。そんなことがあるかしら、と疑うこともできるだろう。しかし、私は作者には確かにしゃぼんの匂いがしたのだろう、と考える。これは物理的事実云々ということではない。作者がどのような個人的体験をしたのか、ということなのである。かすかな石鹸の匂いを嗅ぎとった、というのは文芸上の事実に属することであり、それが一句を成立せしめる条件として受け入れることができれば、それで十分であろう。私にはかなりオリジナルなこの感受的表現が理解できるように思う。

尼寺の小さき礎石や秋の声     栗林 圭魚

静かな秋の夕暮れである。作者はとある尼寺の遺跡に佇んでいる。小規模の寺であったと見えて、その礎石も小ぢんまりとしている。いかにも静かなあたりの雰囲気に、この寺の往時の静寂なたたずまいなども思われてくるのである。

ブリューゲル展出でてうつつの梅雨の町 江口 井子

ブリューゲルはフランドル派の画家。その晩年は好んで農民の生活を描き続けた。彼のある時期の最高傑作とされる「バベルの塔」が今、上野に来ており、作者はその展覧会に足を運んだのであろう。この句はその展覧会のメインたるべき「バベルの塔」の残像が一句をなさしめたことが分る。結局は完成することなく終ったバベルの塔-。あまりに複雑な構造物とその大事業に取り組む職人達が詳細に描かれた一枚の絵はしばらくは作者の脳裡から離れようとはしない。梅雨に煙った現実の町並は次々に擦過してゆくばかりである。

志磨泉句集『アンダンテ』
2017/8/26刊行

◆第一句集
上手く笑へず上手く怒れず初鏡

泉さんの自画像である
それは、人間関係における
自己表現のむずかしさ――
しかし彼女のうちに備わった
音楽性は その俳句作品に
独自のリズム感をもたらしている
(帯より・行方克巳)

◆自選十句
視程五マイル初凪の地中海
上手く笑へず上手く怒れず初鏡
実朝忌ことばの力疑はず
一頁手前に栞春灯
吾子に買ふ片道切符風光る
南風を味方につけて棒倒し
帰省子のまづ弟のことを問ふ
同じことまた問ひかけて墓洗ふ
妬心とはかういふかたち曼珠沙華
あれが君さう決めて見る寒オリオン

小野桂之介句集『蝸牛』
2017/8/8刊行

学者であり教育者である顔とはちがう、表現者の表情。
夫であり父であり祖父である温和なまなざしとは別の、キラリと光る鋭い視点。
何事もてきぱきとおこたりなく進める有能な行動に、時折覗く諷刺と茶目っ気。
作者を知る人も知らぬ人も、読めば読むほど味わいの増す句集。
(帯より・西村和子)

◆西村和子選十句
ハンカチで煽ぐのんどの白さかな
一掻をがしやりと注ぎぬ蜆汁
鮎宿の壁行灯の女文字
長き夜やこのごろ妻の鼻眼鏡
席蹴つて赤き手袋わしづかみ
居眠るがごとし学者の初仕事
登校子悴む指を食らひけり
振り向いて小さく手を振り春の風
ダメといふことばかりして七五三
幕上がり奈良岡朋子毛糸編む

窓下集 - 7月号同人作品 - 西村和子 選

とこしへに母は黒髮天の川  吉田 林檎
船室の天井眩し春の波    井戸ちゃわん
耳になほ都をどりのヨーイヤサ 米澤 響子
枝々の影はぐらかす春の水  松井 秋尚
真剣はときに滑稽猫の恋   山田 まや
ステップを踏みつ象の子春を待つ  若原 圭子
抗ひし日々を置き去り卒業す 藤田 銀子
その翳のなかをしだるるさくらかな 井出野浩貴
翠黛のはなやぎ増せり花の雨 中田 無麓
海沿ひの町へ出張夏近し   月野木若葉

知音集 - 7月号雑詠作品 - 行方克巳 選

フラミンゴ春のレビューの楽屋裏  大橋有美子
銀しやりに目刺突き刺し喰ひしころ 竹本  是
むささびの黒瞳の覗く巣箱かな   岩田 道子
たかんなの息に湿れる新聞紙    栃尾 智子
顔あげて桜吹雪の中にゐる     井戸ちゃわん
鳥帰る吾にも翼ありし頃      大野まりな
春愁の流し目寅さんブロマイド   植田とよき
針供養働く人の指太き       難波 一球
大原の茶屋のもてなし春炬燵    前田 星子
金庫室内窓開いて春の雨      板垣もと子

紅茶の後で - 7月号知音集選後評 -行方克巳

フラミンゴ春のレビューの楽屋裏  大橋有美子

普通我々が見るフラミンゴは虹色の羽を持ち多数が群れて行動する。動物園の檻の中で沢山のフラミンゴが細長い脚をふわりふわりと動かして独特の動きを見せている。その賑やかなありさまを、作者は春のレビューの楽屋裏みたいだと表現したのである。楽屋裏とは楽屋の内部ということで、舞台が開く前に踊子達が思い思いのステップを踏んだりして、準備をしている、そんな情景をフラミンゴ達の動き方に見て取ったのであろう。「春のレビュー」で明るい彩りのフラミンゴの集まりらしさを思わせる。楽しい比喩の句である。

銀しやりに目刺突き刺し喰ひしころ 竹本  是

中七の「目指突き刺し」が何のことか分からないかも知れないが、これは戦後の食料事情が悪かった頃を考えれば理解が行く。すなわち、兄弟が多いと副食物でもおやつでも取り合いになっただろうから、大皿の上の目刺も自分の分はさっさと取り分けてしまうのである。そしてそれを、これもまた貴重であった白いご飯に突き刺しておくというのである。何人もの男兄弟の食事風景である。

むささびの黒瞳の覗く巣箱かな   岩田 道子

むささびはリス科。前肢と後肢の間に膜があって木から木へと飛び移る。眼が大きく愛らしいのだが、この巣箱から覗いている黒瞳はどうやら子供のむささびらしい。

高橋桃衣集 
自註現代俳句シリーズ 12期21
2017/6/20刊行

ラムネ飲む釣銭少し濡れてをり
ファインダーに入り切れない花野かな
水底の空を駆け抜け寒鴉
ハンカチーフきつぱりと言はねばならず
いつまでもルオーに佇てる冬帽子
きしきしと月光がガラスを磨く
土地を売る机一つや梅雨晴間
シュレッダー紙食べつづけ夜長し
いつ見ても誰が描いてもチューリップ
新酒酌む句友といふはありがたく

窓下集 - 6月号同人作品 - 西村和子 選

流氷に彳つはラスコリニコフかな  米澤 響子
春時雨墓前にふつと止みにけり   小林 月子
寝てさめて雪とけて雁帰りゆく   中川 純一
小流の音の育てし春子かな     竹本  是
雨の夜の更けて雛の息づかひ    井出野浩貴
草青む東寮南寮巽寮        江口 井子
春昼のうろうろ探す眼鏡かな    久保隆一郎
花ミモザ思ひ何ゆゑ空回り     大橋有美子
初午の巫女の細眉細面       中田 無麓
髪洗ふ今日と変はらぬ明日のため  吉田 林檎

知音集 - 6月号雑詠作品 - 行方克巳 選

初大師達磨買ひ筆買ひ忘れ     藤田 銀子
雛の間に通ふ足助の山気かな    中田 無麓
歯をせせりをりてゴリラの春愁   中川 純一
人の世に矢印ばかり鳥帰る     前田 沙羅
杉落葉噛んで薄氷ひろごれる    中野トシ子
恋の句が欲しや眩しき二月来る   馬場 繭子
船頭の演歌訛りてうららかに    原田 章代
初大師賽銭箱の継ぎ足され     前山 真理
海の絵の涼しき風を見てをりぬ   佐貫 亜美
人類史残りいくばく寒夕焼     井手野浩貴

紅茶の後で - 6月号知音集選後評 -行方克巳

初大師達磨買ひ筆買ひ忘れ     藤田 銀子

一月二十一日、新年最初の弘法大師空海の縁日を初大師という。関東近辺では川崎大師が最も知られており、多くの人出がある。福達磨は最も有名な縁起物で大小様々な達磨が境内の出店に所狭しと並べられる。その中に作者の心を引く達磨があったのだろう。しかし、もとより達磨を買おうなどとは思ってもいなかったので、そのことに気をとられ、また境内の混雑に捲き込まれているうちに、うっかりと筆を買ってくることを失念してしまった。弘法大師は三筆の一人で、それにちなんで筆を売っている。筆は文芸を象徴するものだから、その筆を買うことを忘れてしまったと自分を笑っているのである。

雛の間に通ふ足助の山気かな    中田 無麓

足助は愛知県豊田市の地名。古来塩の道の足助宿として栄えてきた。<野良着吊る土間がすなはちひひなの間>からも推察されるように、古い時代の趣が今にも残っている地と思われる。山の冷気が雛の間に座している自分にも感じられるというので、足助という固有名詞と相俟って、他所にはない雛の情緒を醸しだしている。

歯をせせりをりてゴリラの春愁   中川 純一

類人猿ゴリラの行動を見ていると本当に人間そっくりで時には苦笑いしたくなることさえある。歯をせせるという行為もその一つ。彼らは人間が見ていることなど全く気にかけていないから、ありのままの自分を見せてくれるのだ。しかもそのゴリラの雰囲気にはそこはかとなき愁いが感じられるというのである。

西村和子著『清崎敏郎の百句』
2017/6/15刊行

◆俳句は足でかせぐものだ

蹤いてくるその足音も落葉踏む

落葉を踏んで歩く時、人は孤独感のうちにも、今、ここに在る自分の存在を改めて確認する。静けさの中で、この句はもうひとつの足音を聞いている。自分に蹤き従って歩む者の、落葉踏む音である。その足音も孤独の象徴と言えよう。創作の道を歩む師弟関係を思わせる句だ。その存在に気づいていても、待ってやったり、声をかけるでもない。隣り合う孤独を思うばかり。
句集『系譜』の掉尾に置かれた句。風生没後「若葉」の継承者として出版した句集の題名にも、その覚悟は表われている。

窓下集 - 5月号同人作品 - 西村和子 選

風荒ぶたび流氷の爪立ちぬ   高橋 桃衣
流氷のまざと裂けしが緑噴く  中川 純一
寒卵地軸あるかに傾きて    米澤 響子
鷽替や麻痺の右手を庇ひつつ  中野のはら
水天の藍色緩び春兆す     石山紀代子
ポケットに摑むものなく春寒し 天野きらら
料峭の古備前徳利首すくめ   植田とよき
金箔をわづかに残し壺寒し   吉田 林檎
バレンタインデー本命のチョコ小ぶりなる 松枝真理子
待春や雀荘古書店ペナント屋  志磨 泉

知音集 - 5月号雑詠作品 - 行方克巳 選

寒夕焼この世の末の色あらば   久保隆一郎
裏日本出でぬ一生鰤起し     石原佳津子
家中の闇は動かず春一番     矢羽野沙衣
酒蔵の醪つぶやき山笑ふ     帯屋 七緒
ぼろ市にぼろは買はねど無駄遣ひ 藤田 銀子
薄氷の端踏んで母癒ゆるなり   太田  薫
大火鉢旧知のごとく囲みけり   永井ハンナ
ディレクターチェアを庭に春隣  原田 章代
蕗味噌や銀シャリ眩しかりし頃  本宿 伶子
やはらかく闇うづくまる冬座敷  島田 藤江

紅茶の後で - 5月号知音集選後評 -行方克巳

寒夕焼この世の末の色あらば   久保隆一郎

すさまじさを覚えるまでの寒の夕焼が作者の眼前に広がっている。そしてその赤さは例えようもないほど澄みきっているのである。もしこの世の終焉というものに色があったとしたら、まさにこの色なのではないか、と思う。今までに何度か、寒夕焼の前に立ち尽くした経験が私にもある。ときにそれは暗黒と爛れるような赤の相剋の世界でもあり、澄み切った浄土を思わせるような景でもあった。私の知人の説によると、人類はあと百年のうちに滅亡するという。その時、作者の目にしているような夕焼の空がやはり広がっているのであろうか。

裏日本出でぬ一生鰤起し     石原佳津子

かつて太平洋側を表日本といい日本海側を称して裏日本といった。奇妙な平等意識で、現在では公的にはほとんど使われていないのが、裏日本という言葉である。しかし私は、何となくその言葉のイメージするところに共感を覚える。作者は、その裏日本を一生出ることはない、という。勿論現在では交通が発達していることだし何の気遣いもなく上京は可能である。しかし、一旦生活の基盤を裏日本と呼ばれる地に置いたら、それはかつでそうだったように生涯その地に根を下ろすことになるのは必定かも知れない。そして、その地には他にはない自然があり、生活があるのだ。鰤起しという季題が十分に生かされた一句である。

家中の闇は動かず春一番     矢羽野沙衣

外は春になって初めての南風(春一番)が吹き荒れている。しかし、家という空間に充ちた静寂は外の動きには何の影響も受けることはなく、 部屋部屋の闇はいよいよしんと静まりかえるばかりである。

窓下集 - 4月号同人作品 - 西村和子 選

わが句集父母に供へて御慶とす  中野のはら
見知らぬ子見慣れる吾子も入学す  吉田 林檎
髭面のチーフパーサー冬の旅  谷川 邦廣
掛け声の指南に沸きて初芝居  影山十二香
星屑を黒手袋に掬はばや  井手野浩貴
白妙の揺るる気位寒牡丹  黒木 豊子
初日の出あはてて両手合はせけり  中川  朝
朝寒に覚め病室の壁白き  金子 笑子
見廻りの守衛に懐炉貰ひたり  月野木若葉
ふるさとへ秋深みゆく車窓かな  石原佳津子

知音集 - 4月号雑詠作品 - 行方克巳 選

庭傷みゆく寒月に晒されて  高橋 桃衣
病院の夕餉の早く夜の長し  金子 笑子
白壁に鳥影過る初景色  谷川 邦廣
手つかずのままの更地も初景色  片桐 啓之
ストーブに顔伏せたまま話し出す  笠原みわ子
氷張る気配の水のくもりかな  鈴木 庸子
つつかれて河豚の怒りのをさまらず  若原 圭子
積ん読の一書を開く七日かな  難波 一球
初場所や土俵の上の二十歳  箱守 田鶴
初御空相模の海の涯しなく  橋田 周子

紅茶の後 - 4月号知音集選後評 -行方克巳

庭傷みゆく寒月に晒されて  高橋 桃衣

かつてのわが家の庭であろうか。それとも家路のみちすがら見掛ける景であろうか。昨今までは手入れが行き届いていた庭が、何らかの事情で荒れるままになっている。冴え冴えとした寒月光に照らされて、日々に荒廃は渉むような気がする。作者の目のあたりにしている実景を、心奥の形象にまで昇華せしめた一句であると思う。

病院の夕餉の早く夜の長し  金子 笑子

私も二度ほど比較的長い入院生活を経験したことがあるが、まさにこの句の通りである。ただ、少し体調がよくなると、夕食が待ち遠しくなる。廊下に配膳の音がすると期待感がたかまってきたものだ。また夜も小康状態のときと、苦しんで喘いでいる場合では全く違う。咳の発作が全くおさまらない時や、息苦しくてどうしても眠れない時ほど、早く夜が明けてくれればいいと、そればかり考えている。
しかし、同じ夜長でも快方に向かっている時は、何でこんなに時間が長いのだと思うことは同じだけれど、その内容は全く異なるのである。この句は当然退院もあとわずかという時の句である。

白壁に鳥影過る初景色  谷川 邦廣

きわめて単純にして明快なる一句である。白壁というスクリーンを雀か何か黒い鳥影が横切った、と、それだけである。初景色という季題はどうしても構えて取り掛かる傾きがある。それだから、いかにも初景色の一句でございます、という句になりがちなので、この一句は、私のその疑問に見事に答えてくれている。

窓下集 - 3月号同人作品 - 西村和子 選

冬ぬくし家族写真が金庫より   植田とよき
磯菊や浪迫り上がり縋り落ち  井内 俊二
ぼろ市の主壺よりくすみをる  影山十二香
見舞ふとはやさしきことば冬薔薇  天野きらら
冬怒濤耳元の声掻き消され  栃尾 智子
ごろつきのやうに着ぶくれ熱海駅  米澤 響子
空箱を畳んで縛り十二月  野垣三千代
すれちがふ川船の灯も年忘  井手野浩貴
シナモンのかすかな匂ひ冬館  井戸ちゃわん
船溜り隙間隙間の冬の空  磯貝由佳子

知音集 - 3月号雑詠作品 - 行方克巳 選

靴下の片つ方ばかりどれもこれも  加藤  爽
塩焼のぐじの鱗の香ばしく  鈴木 庸子
ビー玉のやうな象の目十二月  津田ひびき
遺されし薬の山や冬深し  植田とよき
被災者の遺品に買ひたての日記  片桐 啓之
もう七日過ぎてしまへり十二月  鈴木 淑子
継ぎ目なき青空十二月八日  小沢 麻結
地図読めぬ女の余生木の葉髮  原田 章代
腰折れとなるまで靡き枯尾花  大橋有美子
ジャンパーの鷲の刺繍のくすみをり  小林 飛雄

紅茶の後で -3月号知音集選後評 -行方克巳

靴下の片つ方ばかりどれもこれも  加藤  爽

女性の靴下の場合、洗濯したあとでどのように整理しておくか知らないのだが、私など似たような色の靴下ばかりでどれが一対なのか訳が分からなくなってしまうことがある。急いでいる時など特にそうである。同じ色で左右をきちんと見分けるのがなかなか難しい。勿論最初から落着いてペアにしておけばいいのだろうが、なかなかそうもゆかないのである。
爽さんのことだから、そんなことにぬかりはないのだろうが、この句は靴下にからめて、ある種の焦燥感を表現しているものと思われる。幾つもの靴下は必ずペアになるべきものがあるはずなのだが、今どれもがその片っぽしか見つからない。気があせればなおのこと、であろう。自分に対するいらだちと無力感無季ではあるが私はなぜか捨て難く思う。

塩焼のぐじの鱗の香ばしく  鈴木 庸子

若狭湾でとれる甘鯛の一塩をぐじというようだ。その塩焼のぐじは鱗が香ばしいという。塩鮭の皮を好む人は多いが、こんがりこげたぐじの鱗がよい香りがするということは、なかなか私のような調理などに疎いものには言えたものではない。この一句から、本当にうまそうな香りが漂ってくる気がする。

ビー玉のやうな象の目十二月  津田ひびき

象は動物園の人気者で、どこにもいるそれほど珍しいものとは思っていなかったのだが、最近その象さんを確保するのが大変難しくなっているという。受け入れ側に、象さんにとって充分な環境が用意されないときは移動できないというのである。旭山動物園かなにかでは、象さんを迎えるために大工事をしていると聞く。それでなくても動物園は、野生動物にとってはまさに檻そのものである。高村光太郎の詩に可哀想な動物園の駝鳥をうたった詩があった。
閑話休題。大きな図体の象であるから、その目はとても小さく感じられるのだが、よく見ると本当に澄んだきれいな目をしている。作者はビー玉に例えたが、十二月という季と相俟っていっそうその目は澄み切って感じられる。