窓下集 - 12月号同人作品 - 西村和子 選
カンナ赤有刺鉄線押し退けて 岡本 尚子
冷まじや怒髪天つく木つ端仏 江口 井子
秋雲や城下をゆけば子規の声 井出野浩貴
台風過羽田沖まで砂の色 大橋有美子
鍵盤の象牙黄ばみぬ秋灯 影山十二香
人のこととやかく言へぬ秋 暑し 天野きらら
水音にうち重なりて秋の蝉 石山紀代子
凾谷鉾風の大路を見下ろして 小池 博美
在釜告ぐ門の貼紙秋日和 山田 まや
桟橋を跣足やスニーカーを手に 植田とよき
知音集 - 12月号雑詠作品 - 行方克巳 選
手は足を足は手を追ひ阿波踊 井内 俊二
蜻蛉の群れてもはぐれても独り 久保隆一郎
夜の目の光れば鹿の獣めく 片桐 啓之
雲の峰健脚コース選びけり 石川 花野
鉋屑ふんはり匂ふ白露かな 影山十二香
火祭の火に煽らるる小競り合ひ 青木 桐花
バギーの子ゑのころ草に手の届き 山本 智恵
蟻の道でで虫の道我の道 前田 沙羅
アロハ着てサンダル履いて美術館 中野のはら
新宿もいつかは廃墟赤とんぼ 井出野浩貴
紅茶の後で - 12月号知音集選後評 -行方克巳
手は足を足は手を追ひ阿波踊 井内 俊二
阿波踊りの句と言えば、岸風三楼さんの、<手をあげて足を運べば阿波踊>という句が知られているが、俊二さんのこの句はちょっと異なった把え方をしているようだ。手をあげて足を運ぶという表現はなるほど合点する。その手足の動きの連続したムーブメントを分析してみると、確かに「手は足を足は手を追」うということになるように思われるのである。風三楼の句を十分承知した上での作であろう。
蜻蛉の群れてもはぐれても独り 久保隆一郎
蜻蛉のよみは普通「とんぼ」であるが、なまって「とんぼう」になったとされる。風生歳時記では、現代語の仮名表現としては「とんぼう」であり、古典的な表記では「とんばう」とする。
角川の俳句大歳時記では、考証の中には「とんばう」が多出するが、蜻蛉の傍題としては「とんぼう」をとっている。
私は「とんばう」という表記はどうも好きになれない。普通は「とんぼ」というのだから、「とんぼう」でいいと思う。
あめんぼうなども同様である。
掲句は、蜻蛉の群れ飛ぶときでも、あるいは一匹だけ群を群れている時でもどれも一人ぼっちであるという。作者の中のどうにもやる方ない寂寥感を蜻蛉のうえに見ているのである。
夜の目の光れば鹿の獣めく 片桐 啓之
昼日中の鹿の大きく澄んだ目はまことに愛らしく、野生の動物であるには違いないが、とても親近感を覚える存在だ。しかし、夜闇の中で目だけが光っている様子は、やはり獣に違いないと感じる。昼と夜では鹿はまるで異った動物のように思われるのである。