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初句会  西村 和子

子がげし香に目覚めて年新た

富士望む席を得たりし初電車

全容は見せず初富士神々し

初句会京の山河に迎へられ

堂々の名乗りを待たむ初句会

大寒や心尖れば折れやすく

かへりみて海光眩し寒詣

春を迎へに空色の旅鞄

 

一期  行方 克巳

万歩計十歩に日脚伸びにけり

手袋の指もておいでおいでする

日めくりの束の光陰たのみけり

初暦掛けて錆釘ゆるびなき

ふくろふや一光年はわが一期

紅塵に大寒の日の在り処ろ

大嚔いま何かひらめきしかと

まつさらな明日あるべし落椿

 

◆窓下集- 3月号同人作品 - 西村 和子 選

わが歩む音のみ唐招提寺秋 江口 井子
石蕗咲くやいづれは畳む母の家 井出野 浩貴
横浜の歴史を深め銀杏散る 大橋 有美子
落葉掃き終へて一服また落葉 帶屋 七緒
ボーナスやあの頃無駄遣ひばかり 大野 まりな
あるは冴えあるは燻り冬紅葉 中田 無麓
秋扇大きくつかひ待ちくれし 松枝 真理子
銀杏散る大道芸の旅鞄 志磨 泉
極月の街に鉄骨ばらす音 中津 麻美
鳥が鳥呼んで啄む熟柿かな 石原 佳津子

 

◆知音集- 3月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

罰点のいくつも年の市マップ 志磨 泉
顔見世の御節のごときお弁当 小島 都乎
冬紅葉青きを内に秘め鎧ふ 松井 秋尚
尼君の今日は気さくや石蕗の花 馬場 繭子
正倉院曝涼となむ旅せむか 江口 井子
寒禽のこゑ血涙を絞りたる 中田 無麓
みづうみは汀より暮れかいつぶり 井出野 浩貴
マフラーを取りたる細きうなじかな 塙 千晴
山眠る崎津教会畳敷き 中野 トシ子
ぼろ市の臼を撫でたり叩いたり 鈴木 庸子

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

罰点のいくつも年の市マップ 志磨

一般に年の市といえば正月用の注連飾や諸雑貨を売るための市ということで社寺などの門前に開かれることが多いが、例えば築地魚河岸の場外市場などもその時節には大変な賑わいを見せる。しかし、その場外市場も魚市場の豊洲への移転にともなって、大分変化してきたようである。近来の外国人旅行者の増加によって、場外市場も各種の専門店の撤退が相次いでいる。客種が全く違ってきたために仕方のない現象なのだろうが、昔から知られていた名店が次々となくなってしまう。年の市マップにかつてはびっしりと店の名前が書かれていたのだが、今は×印が目立つというのである。いわゆるシャッターを下ろした状態の店が多くなってしまったのである。それが世相と言えばその通りで仕方のないことなのであろう。この句はとりたてて何の評も加えないで、そういうポイントをきちんと押さえている点がすぐれている。

月冴ゆる山も畑も押し黙り 小島 都乎

作者が今住まっているあたりの景であろう。かなり遅くなって帰宅することも多いと聞くが、昼間は作者に語りかけてくれるであろう山も畑も、寒月光に照らされて静まり返っている。「押し黙」っているのは作者の気持ちの反映でもあるのだ。

日に青く透け綿虫の浮き上がる 松井 秋尚

綿虫は別称を雪蛍とか雪ばんばとも言う。雪虫とも呼ばれるが、これは雪上に這う小さな昆虫の名でもあり、綿虫としては用いない方がよいだろう。さて、綿虫はまことに小さく可憐な存在で、よく晴れ渡った日などふと見つけて目で追ううちに急に行方を見失ったりすることがある。日に透けて薄青くほのめく様子は美しい。この一句は、その綿虫に日が当たってふうっと作者のまなかいを過った瞬間を美事に具象化した作品といえるだろう。

◆窓下集- 2月号同人作品 - 西村和子 選

冬麗の光押し分け出航す 吉田林檎
片空に雲はひしめき冬隣 井出野浩貴
小六月茅葺の堂膨らみて 高橋桃衣
葦原のそよと揺るればなべて揺れ 栃尾智子
ベランダは散髪日和小鳥来る 久保隆一郎
時差に目覚めて船窓の寝待月 江口井子
疑ふを知らぬ純白芙蓉咲く 影山十二香
昼の虫はたと止みたる静寂かな 石山紀代子
垢抜けて外人墓地の四十雀 中川純一
塔頭の門の簡素に石蕗の花 安部川翔

◆知音集- 2月号雑詠作品 - 行方克巳 選

征きし日のままのパレット秋灯下 島田藤江
福島の此の面彼の面に白木槿 小沢麻結
更待やドナウの流れ銀波敷き 江口井子
長月の夕べだんだん急ぎ足 佐竹凛凛子
虚空より風の便りの木の葉かな 吉田林檎
ジャズ少し好きになりたる夜長かな 中津麻美
裏返すごとくに陰り冬の海 原川雀
小春日の父もポッキー食べ歩き 中川純一
障子貼る母の気の上向きますやう 島野紀子
被服科の全身モデル文化祭 小林月子

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方克巳

藍の濃き陶片踏めば小鳥来る 島田藤江

わが国には、何々窯何々窯といって多くの陶器を製造する名産地がある。現在でも盛んに仕事をしている処もあれば、すでに廃れてしまって昔日の面影が失われてしまっている場合もある。作者は既に用いられなくなってしまった登り窯の周辺に、ちらばっている陶片を踏みこの窯の往時をしのびながら歩いたのであろう。深い藍色の陶片は、かつてのその窯から産出した陶器を思うのに充分な美しさを秘めているのである。「小鳥くる」という季がまことにふさわしい。

白桃や風評拭ひても風評 小沢麻結

東北大地震、津波そして原発事故―――。大地震も津波も想定外の規模であったという。しかしこのような天災に想定外というのはないであろう。原発事故もまた想定外だというが、我が国のような地震国の、それも海岸に隣接して設置された原発に、このような事故が起きる可能性があるのは明白な事実である。あの時の政府の発表はひどかった。テレビの前の誰もがとんでもない事態が発生していることを感じ取っていたのにもかかわらす、何でもない、安心していいを繰り返していた。そのくせ早々と自分の家族には安全対策を怠らなかったということを知るとなおのこと、である。

日本人は比較的他の人のことを慮る民族だとは思うが、しかし、いざとなると案外そうではない。例えば汚染土の捨て場は絶対自分の住環境の近くはダメ、という類いである。

風評被害ということにも考えさせられる。厳密な検査をへて安全とされた食物でも買い控える。福島の白桃がどのようなものか私は知らないのだが、恐らくこの風評被害に直面したのだろう。桃が霊力のある食べ物であることは、古事記の伊邪那岐・伊邪那美のエピソードでも知られている。<桃ほかすそばから黄泉醜女が手>はそれからヒントを得たものだろう。

船足を早めたるらし鳥渡る 江口井子

ドナウ河の船旅での句である。次々と移り変わる両岸の景色―――。古城あり、葡萄畑あり、空を見上げると竿をなして鳥が渡るのが見える。移りゆく景色が少しばかり変化してきたのはどうやら船がスピードを上げてきたらしい。

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 西村和子 選

秋冷や朝の蜂蜜固まりて 中川純一
虹立ちて江戸蘇る日本橋 栃尾智子
拗ねてひとり笑つてひとり冷まじや 石山紀代子
草原の白く波打ち月今宵 井内俊二
みんみんの声の上から法師蟬 植田とよき
鳥渡る水平線のくつきりと 井戸ちゃわん
秋夕焼夢見る街となりにけり 佐貫亜美
身に入むや立退き終へしビルの群 月野木若菜
大文字見えて遥かに合掌す 山田まや
大工呼び植木屋を待つ台風禍 島野紀子

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 行方克巳 選

冷やかや脚の関節こきとなり 中野トシ子
みなもとも河口も遥か水の秋 井出野浩貴
急ぐこと何にも無くて秋の暮 國司正夫
吹上の松より始む松手入 片桐啓之
仁王像の鼻の穴から秋蚊かな 原川雀
小鳥来るその木の幸のあるごとく 中川純一
蓮の実飛ぶ来世ふたたび契るべく 馬場繭子
深秋の心奥のわが熾火かな 松重草男
話し込む床屋酒屋の秋の暮 星山百
天高し十円玉をまた拾ひ 山田紳介

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方克巳

そぞろ寒起きて又寝て出そびれて 中野トシ子

朝方になって冷える頃起きるのが面倒臭くてまた寝てしまった----というのとは少し違うようだ。何となく体がかったるいのである。そこでまだ起きるのには時間があるから二度寝をしてしまった。そして目がはっきりと覚めた時はいつもの起床時間よりだいぶ遅かった。すぐに支度をすれば間に合う約束なのであるが、結局ぐずぐずしていて出そびれてしまったというのである。普段だったら化粧もそこそこに家を飛び出すのだが、やはり体調のせいなのか積極的になれないのである。

鯖雲や千住に立てば旅ごころ 井出野浩貴

千住といえば勿論芭蕉翁の奥の細道の旅の出立の地である。300年以上昔のことではあるが、やはり俳句を志す者にとって千住という地名は特別なのである。中七下五の流れが自然でわざとらしさが無くていい。

急ぐこと何にも無くて秋の暮 國司正夫

せせこましい現代に生きる我らであるから、毎日毎日何かにせかされているように思うのはきわめて自然なことではある。まして暗くなるのがどんどん早くなる秋の夕方である。そういう気持ちはますます倍加するのも当然なことである。しかし作者は敢えて「急ぐことは何にも」無いという。そう自分に言い聞かせることによって、落ち着きを自分のものにしようとしているのかも知れない。でも確かによくよく考えてみれば、人は皆わざわざ忙しい状況に自分を追い込んでそれで何となく安心しているのかも知れない。

窓下集- 12月号同人作品 - 西村和子 選

一滴に世界の揺れて秋の水 吉田林檎
ひと色は無色透明朝の虹 石山紀代子
入院の父に朝顔託さるる 井出野浩貴
秋の灯や昭和の映画二本立て 久保隆一郎
銀漢を渡らむ都電荒川線 岩本隼人
名月や浜の小貝のひとつづつ 大橋有美子
噴水の虹をさはつてみたき子よ 影山十二香
花苗を並べ酒屋の梅雨晴間 若原圭子
飄々と秋風渺々と山湖 江口井子
虹かかる浅間の空のまだ濡れて 清水みのり

知音集- 12月号雑詠作品 - 行方克巳 選

眠られぬ夜は眠らず火取虫 石原佳津子
雲の峰健康教室婆ばかり 黒須洋野
古文書の如き行間滝の面 巫依子
誰もゐぬゼロ番線のちちろ虫 深谷桂介
イブが手を伸ばすエデンの黒葡萄 帶屋七緒
鼻先を男踊りの手の掠め 鈴木ひろか
今日子規忌明日三平忌根岸ゆく 井内俊二
虫すだく末尾より読む子規年譜 志磨泉
白靴の花婿の眼の真つ直ぐに 岡本尚子
身にしむや骨壺の母膝のうへ 佐藤二葉

紅茶の後で- 知音集選後評 -行方克巳

壁紙の木の葉に止まり火取虫 石原佳津子
火取虫は、灯火が未だローソクなどの時代、ばたばたと飛んで来ては炎を消してしまうから、火取虫というようになったので、現在はむしろ火に取られる虫(特に誘蛾灯などのように集まって来る虫を殺す仕組みなどあり)と言った方が正確である。灯を慕ってやって来た蛾が、たまたま壁紙に印刷されている木の葉の模様に止まっているというだけの句であるが、まるで火蛾が葉っぱを承知しているように句作しているのがミソである。

標本の白いのでかいの御器かぶり 黒須洋野
 昆虫館などにあるごきぶりの展示コーナーである。一口にごきぶりと言うけれど、こんなにも沢山の種類があるのか、と驚いている作者である。酸素呼吸をする生物の中で最も生命力が強いのがごきぶりという。我々人類はあと百年しか残されていないという説があるが、酸素で生きている限り、ごきぶりは最後まで地球上に棲息し続けるらしい。

七夕や遭ひしひと逢はざりしひと 巫依子
 「遭ひしひと」というのは今生の何かの縁があって知り合った人ということ。一方「逢はざりしひと」とは、自分にその意志もあり、心ひかれているのに何かの障りがあってどうしても逢うことが出来なかった人、ということ。「逢はざりし」はたまたま逢えなかった、ではなくて、心が動いているのにどうしても結ばれることがなかったと解すべきである。「遭」と「逢」の使い分けに留意したい。

難波一球句集
『八ヶ岳春秋』
2018/12/1刊行

黴臭き部屋の議論みな直球

野球を愛する一球さんの面目躍如たる一句
ーーー直球以外の選択はない。

花野去る妻はも一度振り返り

なつかしく彩り豊かな八ヶ岳山麓の日々。
振り返ればそこに愛ーーー。

(帯より・行方克巳)

◆行方克巳選十句
パソコンに一声かけて初仕事
立ち止まる盲導犬に桜散る
どけよどけよと顔上ぐる毛虫かな
黴臭き部屋の議論みな直球
白球の芯は夢なり獺祭忌
もう消えぬ雪の白さよ八ヶ岳
一呼吸置きて剪りけり白牡丹
本棚を遠しと思ふ春の風邪
花野去る妻はも一度振り返り
水よりも風が冷たし牡蠣割女

窓下集- 11月号同人作品 - 西村和子 選

死ぬるにもかかる銭金蟬時雨 井出野浩貴

新涼のさよなら私といふ別れ 久保隆一郎

夕涼の風はたゝと鳴りにけり 石山紀代子

鉄板のごとく海展べ港夏 高橋桃衣

金魚玉浮かべ売声威勢よし 岩本隼人

ランドセル重くなりたる更衣 植田とよき

蚊遣香百物語最終章 橋田周子

サンドレスハワイの水を売つてをり 竹中和恵

この道を辿れば若狭えごの花 中野のはら

夜濯の音の時折荒荒し 塙千晴

 

知音集- 11月号雑詠作品 - 行方克巳 選

白に白重ねて牡丹暗みたる 難波一球

機影いま光の粒に雲の峰 中野のはら

タイル張りエントランスの蚊遣香 中野トシ子

新涼やビルにイスラム礼拝所 井内俊二

月涼し門灯の電球(たま)切れしまま 小野桂之介

夜更かしの児の声通る夏休み 下島瑠璃

白牡丹深き眠りに誘へる 平野哲斎

父の日の父は放つておいてくれ 井出野浩貴

決め込みし髪を崩さず汗拭ふ 廣岡あかね

アメ横の残暑足首摑まれて 志磨泉

 

紅茶の後で

白に白重ねて牡丹暗みたる 難波一球

大振りの白牡丹―。みっしりと花片を重ねた豊かな白牡丹は、確かに白を打重ねているのだが、そこに自づから暗さが醸し出されてくるのである。白さから生じる暗さを把握した明と暗の対比表現がこの句の眼目である。

 

梅雨出水得体の知れぬもの流れ 中野のはら

荒れ放題に荒れたその翌日であろうか、濁りに濁った流れはさまざまな物を押し流して来る。その中に何だか判別のつかないような物が流れて来たのである。

 

蜩の鳴きだし坊や泣きだせり 中野トシ子

遠ち近ちに蜩が鳴き始めた。すると、今まで眠っていた赤ちゃんが泣き出したというのである。蜩は暗さを敏感に感じ取って鳴き出すのだろうが、坊やは、今まで昼寝をしていたのだが、暗くなる頃あいにふと目をさまして、かたわらにお母さんが見当たらないので泣き出す―。ある種の暗さに両社が反応した結果であるが、それを「鳴きだし」「泣き出せり」と重ねるように表現したのである。

窓下集 - 10月号同人作品 - 西村和子 選

夏炉焚く老いし猟犬傍らに くにしちあき
ややありてくちびる離し祭笛 井出野浩貴
糸となり宝珠ともなり滴れる 植田とよき
物乞ひの少女膝抱く片かげり 佐瀬はま代
渓谷へ下りる目印大夏木 大橋有美子
蛇すすむ水面ひたと張りつめて 大塚次郎
Tシャツの胸に蠢く豹の顔 岩本 隼人
冷房車ちらちら海の見えてきし 井戸ちゃわん
塔涼し上総浦賀を手の内に 高橋桃衣
堀割に添うて歩けば椎匂ふ 中野トシ子

知音集 - 10月号雑詠作品 - 行方克巳 選

天上のかけ橋遠し星祭 原田章代
小さき手の何か摑んでゐる昼寝 大塚次郎
雷鳥や下山うながす雲流れ 鴨下千尋
介護士の汗に応へし一歩かな 橋田周子
島山はおほき陵みどり濃し 鈴木庸子
更衣かうじて部屋の模様替へ 平野哲斎
によろによろと袋の中の鰻かな 大原八坂
母の汗しみる野良着の匂ひかな 松重草男

紅茶の後で - 10月号知音集選後評 -行方克巳

恋しさの募り苛立つ紅の花 原田章代

恋心が押さえることが出来ぬほど激しくなった時、人は一体どうしたらいいのか、意志の強い恋人は、何とかしてその恋心を宥めようと努力するだろう。
そしてその方法はいくらでもある。しかし、それが如何としても叶えられない場合だってあるのだ。自分の今の思いを、情熱を、さびしさを、悔しさを伝えようとしてもその手だてはない。何故なら、その恋人はもうこの世に存在しないからだ。激しい渇きはすでに悲しみを通り越してしまった。
紅花は、この激しい飢餓感を象徴して余りある。子規も虚子もある時期小説家を目ざしていた。しかし、二人とも小説家として大成することはなかった。一行の俳句は実に雄弁である場合が多々ある。この一句をまのあたりにして私はそう考えた。

空蟬の背にたましひの切れつ端 大塚次郎

樹皮に産みつけられた蟬の幼虫は地中で数年過ごした後に成虫になる。脱皮したあとに残された脱殻が空蟬であるが、その背後の割れ目に、白い糸のようなものが見られる。私は以前から、これを蟬の臍の緒と勝手に解釈していたのだが、作者は同じものを「たましひの切れつ端」と表現したのである。なるほどうまいことを言ったな、と感心した。

雷鳥や下山うながす雲流れ 鴨下千尋

雷鳥は雪の降る冬期には白く、夏期には黒褐色の羽の色になる。天敵から身を守るために好天で視界が良いときには隠れるようにしているので、登山者が目にするのは、天候が悪いときが多いのだろう。この句雲行きがあやしく今にも雷雨でも来そうな感じになったというのだろう。

窓下集 - 9月号同人作品 - 西村和子 選

蝦夷蒲公栄開拓小屋の骸めき 井内俊二
下町の産院繁盛姫女苑 三石知左子
柿若葉犬にたつぷり水飲ませ 井出野浩貴
初夏の風に追はれて水早し 石山紀代子
一舟も見ず群青の夏の潮 江口井子
谷深の屋根の光りて栗の花 大橋有美子
吾妻橋下にレガッタ追ひ抜かれ 中野トシ子
病窓を斜めに切りて初燕 廣岡あかね
鋸挽きの途切れてよりの慈悲心鳥 小倉京佳
ミモザ咲き吾子にけふより選挙権 松枝真理子

知音集 - 9月号雑詠作品 - 行方克巳 選

薬缶いっぱい麦茶沸かして母元気 竹本是
汗を振り切つてヘディングシュートかな 石川花野
蝦夷春蟬こだまのごとく鳴きつるる 中野トシ子
ジーン・セバーグよりも短き髪洗ふ 田中久美子
時の日の柱時計の中に隠れ 鈴木庸子
飛び込みの下手なペンギン水温む 田代重光
虻飛べり我が家の間取知り尽くし 島野紀子
クレーン三基夏空を組み立てる 佐藤二葉
太宰忌の濡れて艶めく滑走路 小山良枝
初夏の旅の真白きリュックかな 中野のはら

紅茶の後で - 9月号知音集選後評 -行方克巳

波布の井を覗けば虫酸走るなり 竹本是

波布は沖縄や奄美諸島に分布する猛毒を持った蛇。飯を盛る匙に似るので飯匙倩とも書く。波布の井とは、捕獲してきた波布を投げ込んで置く穴蔵をいうのだろう。薄暗い穴を覗くと数多の波布がひしめき合っている。虫酸が走るというが、まさにその言葉の通りであろう。動物の仲間で蛇ほど嫌われるものはないが、1つにはあの形、そして瞼を持たない冷たい目が然らしむる処であろう。

汗を振り切つてヘディングシュートかな 石川花野

1ヶ月程前まではロシアで行われたサッカーのワールドカップが話題であった。サッカーの得点シーンの中で、ヘディングシュートほど興味深いものはない、と私は思っている。何で計ったようにシュート出来るのか、不思議でならないのである。この句は、そのヘディングシュートの一瞬を切り取って、スローモーションカメラで再生したような作品である。「汗を振り切つて」がまことに鮮烈な印象を与える。

形代の足のあたりに息かけて 中野トシ子

夏越の祓の時に、紙の人形の足のあたりに息を吹きかけて川に流したのである。勿論少し不自由な足のよくなるようにという願いを込めてのことである。