柔かく女豹がふみて岩灼くる 富安風生
『愛日抄』 1961
客観写生にそれぞれの個性を
『愛日抄』 1961
『自由切符』ふらんす堂 2018
『地球ひとつぶ』ふらんす堂 2011
『心音』角川俳句叢書 2006
マルセル・マルソーを見た。私の処女句集の題名はここから取った。
『無言劇』東京美術 1984
『系譜 句集』角川書店・現代俳句叢書 1985
噴水と光競へりオベリスク
菩提樹の緑蔭占めて食前酒
夏燕孤高の古城慕ひ舞ふ
前庭にプジョー乗り入れ夏館
先頭の白馬耀ふ大夏野
麦は穂に旅の時間のまだ暮れず
通し鴨グレーの橋へ水尾を曳き
旅人に画家に詩人に柳絮飛ぶ
目を凝らすなり独房の春の闇
耕してホロコーストの春の土
吹つ飛びし脳も春の土にかな
禍星を胸に春草踏む素足
三段ベッド春の熟睡のためならず
さらさら骨片降らし名残雪
神の血も肉も饐えたり冴返る
酸つぱい肉囓りて春を生きのびし
『俳句四季』と重複
さもあらばあれ蛮声の卒業歌 井出野浩貴
散りぎはを雨に愛づるも桜狩 藤田銀子
買うて来し緋目高はやも我を見る 中川純一
人波を流れて一つしゃぼん玉 高橋桃衣
腕まくりして遠足の子どもたち 井戸ちゃわん
花の雨静心とはかかる時 小林月子
魁の捻くれ枝の芽吹きかな 岩本隼人
蛇の舌ちろちろ十六の井沈沈 影山十二香
行く春の風音水音谷深く くにしちあき
春の夢翼をもがれたるは誰 小池博美
白湯吹いて売薬のんで春の風邪 清水みのり
冬籠いつも薬缶に湯のたぎり 千葉美森
夜桜の女御更衣とさぶらひて 鴨下千尋
客あれば少し片づけ冬籠 石原佳津子
細い道一本ありて雪籠 伊藤織女
一輪の咲き揃ひたる二輪草 松井秋尚
言ひかけて言ひそこねたる春の夢 笠原みわ子
太閤の邪気も無邪気も花は葉に 橋田周子
春の夢ゼブラの縞の溶け出して 前田いづみ
日の道に月の道あり山桜 山田まや
ピクスドールとは磁器製の人形ということで、アンティークで美しいものは途方もない値段がついているという。私もまがいものを二体持っているが、その眼は描かれたもので、真夜中でもはっきりと瞠いて闇の一角を見つめている。この句は「またたかぬ」と言っているのであるが、美しいガラスの眼を持った上等の人形でも瞬きはしない。勿論目を閉じたり開いたりすることは出来る。
作者が思わずうつらうつらする春昼にも、彼女と向き合った人形はつぶらな目を開いたまま作者をじっと見凝めるのである。目を閉じて眠るどころか、瞬きもしない、というのである。
赤ちゃんのような犬ではおもしろみはないけれど、まるで愛くるしい仔犬のような赤ちゃんというのがおもしろい。這い這いをしているのか花筵の上に寝かされて手足をばたばたさせているのか、いずれにせよ花人の注目を集めている赤ちゃんである。
ライトアップされた沢山の桜が立ち並んでいる。同じ染井吉野であってもそのそれぞれに違う表情があって見倦きることはない。その華やかさを、まるで物語の中の女御や更衣たちが妍をきそうようだと感じたのである。
ゆくほどに東海道は花街道
その中に見知りの芸妓都をどり
一管の語る一場も都をどり
花たわわ水の光を慕ひつつ
花篝祇園の空の暮れきらず
さくら咲く吾妻郡襞深く
遅桜なれど愛敬遅れなし
女狐を上座に招き花の宴
一山の一木の山桜かな
どこまでも踝足で走る春の夢
振向けばだあれもゐない春の夢
スイートピー無理やり此方向かせても
ここだけの話が飛び火四月馬鹿
鷹鳩と化して引きずる風切羽
いちにちの声を尽して落雲雀
国分寺国分尼寺や葱坊主
をみな我何を遂げたり立子の忌 米澤響子
下宿決め飯屋も見つけ春の雪 中川純一
雛の間の雛と夜雨を聞き澄ます 井出野浩貴
永福寺跡を偵察春の鳶 谷川邦廣
寒さには慣れしと書きてみたものの 難波一球
白梅や灯の入る頃の女坂 大橋有美子
檀林のだんだら椿落椿 小倉京佳
山門に供花売る少年春休み 牧田ひとみ
遠く見て近づいて見て梅の白 竹中和恵
西陣の機音低く余寒なほ 中田無麓
寄せ書きの色紙あたたか棺の中 佐竹凛凛子
春昼や獅子満腔の欠伸して 井内俊二
啓蟄や土橋の土を接ぎ足せる 島田藤江
白梅が咲き紅梅が咲き売家 高橋桃衣
雪解や水たうたうと発電所 原 川省
風光る今日の一歩を踏み出せば 相場恵理子
ふらここの鎖ぞくつと冷たくて 山本智恵
貝殻に波のレリーフ涅槃西風 小山良枝
足裏の点字ブロック鳥雲に 鈴木庸子
大取りは文七元結年つまる 黒須洋野
只の飲会ではないお通夜なのだから、自づから言葉を選んで語り合うのは当然のことであるが、酒杯も重なり、酔いが回って来ると、とんでもない内容のことも思わず口に出してしまうこともあるだろう。故人が親しい仲間どうしならばなおのこと、仲間うちの公然の秘密というようなことだってあろう。うっかりしゃべってしまって思わず顔を見合わせたりする、そんな場面が思い浮かぶ。
忙しく立ち働いてあっという間に一日が過ぎてしまう、というのが都会生活の常であろう。そういう時は、多忙ということにまかせて、仕事以外のことはかえって何も考えたりすることはない。今日は久しぶりにゆっくりとした時間を過ごすことができるという日は、むしろ常日頃心に鬱積したことがじんわりと心に立ち上がって来やすいのだ。ぼんやりと一日が終わってしまったように他からは思われるのだが、結構重い一日なのである。花なづながその間の事情を物語る。
思いがけない事情から古代の遺跡が発掘されることがある。様々な調査研究の後、またもとのように埋め戻されて畑になったり、あるいは記念の広場になったりする。土に覆われているのが最も安全に古代の姿が保たれるのかも知れない。
今作者が立っている辺りの土の下にも古代の歴史が埋もれているのである。
雲雀野に佇み吹かれ旅衣
春愁や鈍き光のサモワール
散りがたの格を崩さず梅ま白
尼五山一位住持は古ひひな
雛調度をみなのあそび他愛なし
引鶴の影写しけむ潦
用ゐねば言葉廃るる養花天
大海は珠を孕めり養花天
大蛤重なり合うて相識らず
象の尾のメトロノームや春眠し
象の眼にナミブの春の砂嵐
河馬バカと呼んで遠足通りけり
赤錆の鉄階鳴らし落第す
落第す一知半解減らず口
この町の男たるべく卒業す
卒業のフェアウェル君のうなじにも
師の墓を訪へば授かり四温晴 中川純一
一切の贅を拒みて寺の春 藤田銀子
キャンパスの聖樹の下に待ち合はす 前山真理
白椿母に告げざる訃のひとつ 井出野浩貴
神宮の杜を睥睨初鴉 江口井子
山門を潜れば時雨出て時雨 植田とよき
春節の街から葉書投函す 井戸ちゃわん
少女には少女の艶や春小袖 石山紀代子
咲き初めてをののき止まず梅白し 黒木豊子
冬青空高き梢に風わたる 竹中和恵
関節にたがね打つたり冴返る 久保隆一郎
こんなにも雪これからも明日も雪 金子笑子
着ぶくれて探すポケット多すぎる 井内俊二
一葉の路地を駆け抜け恋の猫 影山十二香
三十年職に馴染めずおでん酒 井出野浩貴
風邪声もいいねと言つて叱られる 植田とよき
エネルギーもらふ真冬の大欅 三浦節子
臘梅のかをりも萎み始めたる 松井秋尚
指組むは罵らぬため冴返る 小沢麻結
初旅のリュックにおもちや菓子絵本 菊池美星
よく言うことであるが、うんと昔のことは細かいことまでよく憶えているが、最近のこととなるとすぐに忘れてしまう------。
なるほどその通りだとは思うが、しかし、かなりはっきり覚えていたことでも、「アレ、あの時はどうだったか知らん。」と自分の記憶に不確かさを感じることがままあるものだ。全くある部分が欠落してしまうこともある。それが年を取るということなのか、とも思う。最近私も運転免許の書き換えでつくづくと己の齢というものを痛感したことである。この句、深刻な高齢者の呟きにならないのは「春宵」という季語が働いているからである。
鈴木牧之の『北越雪譜』には豪雪の国のいかに大変であるかが様々に描き出されているが、作者の温泉宿を営むあたりでも雪が日常の生活に及ぼす影響はひとかたならぬものがあるようだ。花鳥風月といって都人士には風流の代表である雪は、明けても暮れても雪という暮らしには本当にうんざりする以外の何ものでもないのかも知れない。しかし、その雪を目当てに温泉を訪れる客もいるわけだから、いちがいに雪害ばかり云々することも出来ないわけだ。
この句は、「こんなにも」「これからも」「明日も」とたたみ掛けるように降雪の激しさを表現しているのだが、だからと言って雪をまるで敵のように思っているのではあるまい。やはり季題としての雪が活かされているのである。
現在でも昔日の面影は武蔵野の処々に残っているのだが、その特色は森であり櫟や樫、椎などの大樹である。広々とした大空を戴いた大樹に囀る鳥たちも、ちまちまとした都会のそれとは違ってまことにおおらかな趣なのである。
梅まつり支度青竹切り出すも
梅園のその石組は井の名残
梅白し城主も歩みとどめけむ
梅園のおのづからなる敷松葉
梅に彳つ先師の影を失はじ
目覚めたるばかりひとつぶ犬ふぐり
住職の達筆掲げ梅の軒
小流れの乾上りてなほ芹の照り
千枚漬二枚重ねし嚙みごごち
二つ三つ全部大根抜きし穴
瑞泉寺
方代に傘雨にゆかり竜の玉
永福寺
跡方もなきこそよけれ水温む
人ごゑのゆらゆら水の温みけり
梅祭さくらまつりのポスターも
犬ふぐりすぐに踏まれてしまひさう
梅遅速遅きに失したるもよき
薄雲の仄かに明し初時雨 石山紀代子
目札は被災護岸へ出初式 中田無麓
寒晴や一の鳥居へ海見むと 松井秋尚
大寒のきつぱりと立つ八ヶ岳 難波一球
弓始掻き残されし雪踏んで 原川雀
花八手奥の院とは水昏き 大橋有美子
鎌倉はけふも青空冬木の芽 井戸ちゃわん
寒牡丹お喋りを断つ気迫あり 大塚次郎
指揮棒のぴたりと止まり年新た 月野木若菜
着膨れて子熊のやうな赤ん坊 小池博美
初閻魔地獄ワンダーランドかも 鈴木庸子
白佗助咲かせ娶らぬ兄弟 本宿伶子
乗初や新幹線は男前 藤江すみ江
寒椿くれなゐは日にゆるばざる 冨士原志奈
棒切れを振つてゆくなり枯野道 小倉京佳
花街の気分も少し初戎 原田麦子
酔眼のその奥埋火のかすか 巫依子
寒稽古五重塔へ突きを入れ 植田とよき
手ほどきは父親なりし筆始 前田沙羅
子規庵の硝子の歪み鶏頭花 小野雅子
初閻魔は正月16日のお閻魔様の縁日のこと。この日は地獄の釜の蓋もあくと言われ、恐ろしい地獄の鬼も罪人を呵責しない日とされる。昔は藪人と称して奉公人が休暇を貰って親元などに帰れる日でもあった。この句の主眼は初閻魔の行事というより、閻魔大王の前で浄玻璃の鏡に生前の悪業を暴かれた者が行く地獄そのものにある。誰もが極楽浄土を願うのであるが、案外地獄の方がおもしろいところかもしれない、と少し遊んでみせた句作りである。
福の神とされる恵比寿様を祭る神社で授与された福笹に、様々な縁起物をつけて貰い、家の神棚に飾る。あれもこれも欲張って大層重くなってしまった複笹を持て余しているのである。
新幹線を利用しての初旅であろう。入線してきた列車を清掃員の人達が待ち構えており、下車が終ると実に手早くまさに「きびきび」と次の乗客のために座席を整えてゆく。彼らの仕事とは言いながら、その手際のよさはホームで見ていても感心するばかり。私は新幹線は日本の文明を代表する優れものだと考えているが、このような縁の下の力持ちという存在もまた日本を支えてくれているのかも知れない。