看護師は半袖患者着ぶくれて
千明朋代
「知音」2024年4月号 知音集 より
客観写生にそれぞれの個性を
「知音」2024年4月号 知音集 より
「知音」2024年4月号 知音集 より
「知音」2024年4月号 知音集 より
「知音」2024年4月号 知音集 より
「知音」2024年4月号 知音集 より
交差点騎馬警官へ木の実降る
飯田静
国内にあっては皇宮警察ぐらいですので、おそらく海外詠かと拝察いたしました。一句の中にエキゾチシズムがそこはかとなく感じられたことも理由の一つです。
掲句で特徴的なのは、音の効果です。騎馬の蹄、石畳、そして木の実の落ちる音。いずれも硬質の凛とした響きが、深秋の空気を震わせるように際立っています。
句材の新鮮さと音の性質だけではなく、純粋な音韻も句柄を高めるのにひと役買っています。一句17音のうち、硬質なK音が5音を占めていて一句の世界観に彩りを添えています。(中田無麓)
乗り過ごし戻るホームのそぞろ寒
松井伸子
跨線橋や地下通路を渡って、対面するホームに着いてからの時間に詠まれた句。予期しなかった空き時間の心象が「そぞろ寒」という季題に的確に収斂されているように思います。
深秋に感じる寒さを表す季題には大きく2つのグループがあります。一つは「肌寒」、「やや寒」。今一つは「うそ寒」、「そぞろ寒」と言った分類です。前者は比較的客観性の宿った季題ですが、後者には多分に読み手の心理的要素が加わります。
作者の苦笑いを伴う小さな悔いが「そぞろ寒」という季題に的確に反映されているのです。(中田無麓)
兜煮をせせり淡路の秋惜しむ
奥田眞二
秋の真鯛は、桜鯛よりも鱗が赤く染まり、「紅葉鯛」、「錦秋鯛」とも呼ばれ、脂が乗って美味だと称されています。その兜煮を一箸ずつせせる仕草は、まさに「惜しむ」に相応しい動詞の選択だと言えましょう。
とは言え、掲句は味覚だけに拠った句ではありません。句面にはなくても、詠み手には海の雄景が見えてきます。「淡路」という地名のなせる技です。ブランド鯛を育んだ、豊饒の瀬戸の海が掲句のバックボーンになって、目に飛び込んでくるのです。(中田無麓)
庭仕事紫苑の雫浴びながら
小野雅子
「紫苑の雫」という表現がこの上なく美しく、独創があります。加えて、花の特性が言い留められています。草丈が高く、丈夫な紫苑は、ちょっとやそっとの風で倒れたりしません。そこから降って来る夥しい花弁はまさに雫。絵画のような一点景です。
具体的に心象が語られているわけではありませんが、そんな環境下での庭仕事なら、大きな喜びになることでしょう。(中田無麓)
先生の走り回れる運動会
小野雅子
子どもが主役の運動会にあって、先生を主語にして詠んだ逆転の発想と目の付け所の良さが光る一句です。とは言え、先生方は運動会の裏方のリーダー的存在。先生を詠んだ例句もあるかと思いきや、角川大歳時記を見る限り、その例は認められませんでした。蓋し掲句は既視感のある新鮮な句だと言えましょう。
先生方の仕事は多岐にわたります。運営・指導・準備作業等々、枚挙にいとまがありません。このような仕事はすべてグランド外でのこと。作者は、グランド内は児童・生徒に明け渡し、グランドの外を駆け回る姿に可笑し味を感じています。と同時に先生方への敬意も字間に込められていて、温かみを感じます。(中田無麓)
朝寒の十指力を込め開く
田中花苗
「俳句を生むことで心に日が射す」。森賀まり氏曰く、『俳句に内在する明るさ』の本質だそうです。掲句はまさにその核心を衝いていて、詠み手はもちろん、読み手の元気まで、取り戻してくれる一句になりました。掲句を一読した読み手の大半はおそらく、「十指を力を込めて」開いたはず。そこで、力が漲ってゆくことを実感したはずです。
俳句ではモノに託して心を詠みますが、動作に託すことも意味的には同意。これで一日の活力が得られるのなら、まさに俳句の功徳と言えましょう。(中田無麓)
埋もれし売地看板秋桜
小野雅子
秋桜という「雅」と売地看板という「俗」。この二つを程よく対比させた一句です。得てして「俗」的な要素が加わると、一句が「俗」に引っ張られる傾向がありますが、掲句では、品良く、一句に「俗」が収まっています。
その理由は秋桜の生命力にあります。売地看板の高さは高々1メートル内外でしょう。秋桜の丈はそれをなんなく越えてゆきます。「売地」という生々しさなどなんのその。したたかでしなやかな秋桜と背後の空の青が目に鮮やかです。(中田無麓)
沖黒く潮目あきらか秋の海
田中花苗
混じり物のない潔い写生句です。句景が広々として、気持ちの良い一句になりました。加えて、平明な句姿ながら、掲句にはたくまざる技法が潜んでいます。
一つは末広がりに広がる景。上五は沖の一点を見つめています。それが中七では、潮境という一つの線に。そして下五では、海という面を見晴らしています。点→線→面と広がってゆく心地よさが掲句にはあるのです。
今一つは、音韻。上五の母音は、口をすぼめて発音し、やや暗い印象がある、「U音」、「O音」が支配的です。対照的に中七以降は、明るい響きの「A音」が印象的に用いられています。暗から明への場面転換が企まずして功を奏しています。
もっとも、最初から意図してできることではなく、結果としてこうだった、ということなのですが、佳句には、こういった余禄を授かることが往々にしてあるものです。(中田無麓)
ほろほろと咲いて十月桜かな
松井伸子
「十月桜」として季題に立項されている歳時記はあまり見かけないようですが、十月桜を詠んだ句は数多く見受けられます。その多くは取り合わせの句であり、真正面から十月桜に対峙した句は意外に少ないものです。それほど本意を捉えるのが難しい季題です。
掲句は捉えどころのない十月桜を「ほろほろ」という一つのオノマトペで、正鵠に言い留めています。
一句には何の技巧もありません。難季題の句に散見される「ケレン」が全くありません。みたままを素直に、という俳句の基本に立ち返った句だと感じ入りました。(中田無麓)
町工場音を落として夜業かな
若狭いま子
難しい言葉や、言い回しを用いず、嘱目吟に徹した句姿の中に、様々な情感が込められている、ニュアンスの豊かな一句になりました。
近隣住宅地への心配り、夜業を余儀なくされる町工場の事情等々の思いが、論説ではなく詩として昇華されています。そして句材としてこの光景を選んだ作者には、そんな諸事情を忖度する、暖かい眼差しがあります。(中田無麓)
空港を出て国道の照紅葉
森山栄子
わざわざ、国道という管理主体を持ってきた意味を考えてみました。県道でも市道でもよいはずです。管理主体を明確にしたこと、ポイントは「国」にあると、講評者は考えました。
国道とは「日本の国の道」のことなのです。空港は国際空港、作者は海外からの帰途にあるのです。
一概には言えませんが、粗野な感じも受ける外国の紅葉。日本の紅葉はそれとは異なり精緻を極めます。母国に降り立った安堵と、誇るべき自然の美しさに改めて触れた作者の偽りのない感慨なのでしょう。だからこそ、国道の紅葉は、最上の輝きを以て、詠み手と読み手に迫ってくるのです。(中田無麓)
川舟に暮しありけり月高し
箱守田鶴
昭和30年代頃まではよく見かけられた水上生活者。大阪にも船に暮らす人がたくさんいました。が、国内では現在、ほとんど目にすることもなくなりました。掲句はそんな回想の景なのでしょう。回想の助動詞「けり」が用いられていることからも推察します。
現在の景と引き比べての想像が幻想的です。そして光と影が交錯した月の美しさ。時空を超えた格調美のある一句になりました。(中田無麓)
人棲まぬ島にも鳥居秋の声
巫依子
闇深くより木犀の香りけり
(木犀の闇深くより香りけり)
田中花苗
紅葉かつ散る百年の西洋館
鈴木ひろか
オカリナの音色さだかに秋澄めり
巫依子
はらわたを喰ふか喰はぬか初秋刀魚
辻敦丸
数珠玉や日を浴び日々に艶増せり
穐吉洋子
地下足袋の裏の真白き松手入
(松手入地下足袋の裏白なりし)
平田恵美子
身に入むや湖の紺山の紺
(身に沁むや湖の紺山の紺)
板垣もと子
みちのくの宴の締めの走り蕎麦
(みちのくの宴の締めに走り蕎麦)
若狭いま子
語らひのとぎれし時を萩揺るる
三好康夫
蓑虫のあはれ千代紙纏はされ
松井伸子
文豪の館の玻璃戸小鳥来る
五十嵐夏美
別れ話新酒酌みつつ訥々と
辻本喜代志
萩むらの蔭に自転車寄せて逢ふ
三好康夫
秋日和妻の靴紐結びやり
田中花苗
倒れつつ庭のコスモス咲き初めし
(咲き初めし庭のコスモス倒れつつ)
板垣もと子
熟れきりて赤く透きゐる柘榴かな
(熟れ熟れて赤く透きゐる柘榴かな)
小松有為子
季寄せ置き手話交しをり紅葉狩
(季寄せ置き手話うち交す紅葉狩)
奥田眞二
切岸を行きつ戻りつ赤蜻蛉
鈴木ひろか
新涼や朝の窓を全開に
木邑杏
秋深し八人住みし家にひとり
板垣もと子
秋空へ巨大クレーン咆哮す
(秋空へ巨大クレーンの咆哮)
松井伸子
御用聞いちじく一つ捥ぎ帰る
松井洋子
時雨るるや木々の香りのそこはかと
(時雨あと木々の香りのそこはかと)
鎌田由布子
銀杏や道を隔てて香りくる
(銀杏の実道を隔てて香りくる)
水田和代
音読の銀河鉄道窓の月
(音読の銀河鉄道夜窓の月)
川添紀子
テレビ消しラジオをつける夜長かな
鈴木ひろか
釜石線紅葉めでて遠野まで
深澤範子
秋澄むやブラスバンドの音合はせ
川添紀子
冬支度急げば季節後戻り
水田和代
老松に二人抱きつき菰を巻く
(大松に二人抱きつき菰を巻く)
中山亮成
顔役の話の長し秋祭
鈴木ひろか
調教の馬場森閑と木の実降る
(森閑と調教の馬場木の実降る)
飯田静
束ねつつ香の真ん中に菊師座す
(束ねつつ香の真ん中に座す菊師)
小野雅子
ありあわせ纏ひ厨の朝寒し
小野雅子
白雲の失せし秋天底知れず
三好康夫
祖母に供ふ祖父の摘みたる野紺菊
若狭いま子
露天湯へ桜紅葉の一葉かな
水田和代
摩天楼過る鳥影秋の暮
中山亮成
むら薄誰か隠してゐるやうな
小山良枝
「知音」2024年3月号 窓下集 より
朝な朝な凝りたる血か七竈
櫨紅葉真つ赤な嘘であつてもいい
もう誰も待たぬ桟橋雪螢
堕ちてゆく堕ちてゆくよと雪螢
蝦夷富士にかめむしが貼りついてゐる
露芝を踏んでカインの裔ならず
タケオでもアキコでもなく草の花
心中はむごい終活草の花
秋風に解き放たれし裸馬
嘶きて散らしたりけり赤とんぼ
競馬場遺構厳つし小鳥来る
赤蜻蛉百の一つもぶつからず
秋灯を塗り籠め茶屋街西ひがし
城垣を囲む山垣秋霞
秋深しここにも天守物語
存在の危ふき蜘蛛も我らとて
丹田に坐禅の手印小鳥来る
こほろぎや校舎のここらいつも影
野菜室娘の梨が隠れをり
翅広げたればサファイア秋の蝶
待ちかねてをりたるごとく雪螢
剥き出しの地層より立ち紅葉濃し
生きのびし無残またよし蔦紅葉
山雀は人好きな鳥首傾げ
唐黍の捻くれ粒の押し合へる
大橋有美子
台風ののろのろ進む山の雨
高橋桃衣
新涼の畳百畳拭き清め
影山十二香
ビルの灯の定時に消えて月今宵
三石知左子
碁会所のたつたひとつの扇風機
田代重光
ユニオンジャック船尾に靡き秋の声
佐瀬はま代
敬老日関町小町舞ふが夢
山田まや
蓮の実の飛んでど忘れパスワード
米澤響子
アラバマの闇の深さよ虫時雨
井出野浩貴
ゆくりなく座席譲られ菊日和
小野雅子
教会の扉の重き残暑かな
くにしちあき
馬に水飼ひたき汀葛の花
井出野浩貴
縁側も父母も亡し西瓜切る
影山十二香
ペディキュアの桜貝めく素足かな
磯貝由佳子
自転車は杖の替りや夏痩せて
井戸ちゃわん
衣被吾を最後に女系絶ゆ
松井洋子
教会の裏どくだみの花散らし
杢本靖子
短夜の夢より覚めて生きてゐし
山田まや
改札に急ぐ者なし秋うらら
月野木若菜
ぺたぺた歩きぱたぱた走り跣足の子
松枝真理子
読書の秋に読んでいるのは「源氏物語」か。言われてみると、平安時代の物語はすべて仮名で書かれていた、その時代、物語の社会的価値は低く、文学と言えば漢詩が男性の教養の筆頭だった。女子供が楽しむ物語は、どちらかというと馬鹿にされていた節がある。
しかし千年経った今、源氏物語は世界に誇るべき最初の長編小説である。フランス語の翻訳に長い事携わっていた作者には、「仮名で書かれしものがたり」に、私たちには計り知れない思いがあるのではないか。
この肖像画は古いものに違いない。したがってレースも手編みであろう。ヨーロッパでは繊細なレースや技を尽くしたレースが服飾文化として継がれている。そんな精巧なレースを目にして、思わず触れてみたくなった。レースの魅力もさることながら、画家の腕前も素晴らしい。例えばフェルメールのように。
草いきれこんな所に美術館
杢本靖子
「草いきれ」は真夏の雑草が生え放題の場所を想像させる。したがって「こんな所に美術館」という意外性がものをいう。具体的な場所は知らないが、なんの美術館だったのだろう。読み手の心も誘われる。実際に出会ったからこそできた句であろう。
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「知音」2024年3月号 知音集 より
「知音」2024年3月号 知音集 より