草津白根 西村和子
朝霧や落葉松林銀を刷き
露草のつゆまたたかず八重葎
朝戸開け草刈の香の迸る
秋風や草津白根の背を流し
盗み摘む買物篭へ釣舟草
濃竜胆剪るや指切る山の水
調律の遠音気怠し避暑ホテル
退屈も湯治のうちや法師蟬
夕ひぐらし 行方克巳
朝曇救急車過ぎ赤子泣き
棍棒投げ交はすごとくに花火爆ぜ
おしろいの路地の日暮のなつかしく
盆僧の二タくせ三くせありげなる
蓮池のをちこちの揺れ交はしけり
久闊やまそほの芒葛の花
かなかなやありては憎きことばかり
心ぼそきことをまた言ふ夕ひぐらし
志賀高原 中川純一
山道の斥候めいて赤蜻蛉
いつの間に小石が靴に月見草
雷雨来る堪忍袋の緒が切れて
湯煙の息吹きかへし夕立晴
寄る人に蛍袋は顔上げず
ゴンドラを放りこんだり青山河
霧しのび入りて山襞たぶらかす
赤とんぼ千五百二日の旅の空
◆窓下集- 10月号同人作品 - 中川 純一 選
降り出せば声太くなり鬼灯売
小野桂之介
生ビールみんな揃ふを待ちきれず
小野雅子
長梅雨の肩を嚙みたる自動ドア
小倉京佳
さなぎより名付けて飼ひし甲虫
岡村紫子
すかんぽや風連別の水滾り
佐藤寿子
汗の子の髪も眸もくるくると
川口呼瞳
聞き役に徹して崩す冷奴
鴨下千尋
目高飼ふバリアフリーの待合室
栃尾智子
草いきれ抜けて真白き灯台へ
牧田ひとみ
沖縄の海より蒼き熱帯魚
青木あき子
◆知音集- 10月号雑詠作品 - 西村和子 選
一木に策を練りをり梅雨鴉
高橋桃衣
家に寄りつかぬせがれの涼しさよ
井出野浩貴
腰に受く魔女の一撃梅雨に入る
藤田銀子
凌霄のほたりと落つる閑かさよ
牧田ひとみ
白日傘ふはとかたむき舟傾ぐ
くにしちあき
柿の花父亡き町にしきり落つ
小倉京佳
刺青もビジャブも四万六千日
川口呼瞳
大船鉾地中ゆたかに水湛へ
米澤響子
風の路地抜けて大船鉾正面
志磨 泉
糸鋸を兄に教はる夏休
月野木若菜
◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子
赤ん坊襲来さくらんぼ到来
高橋桃衣
「赤ん坊」も「さくらんぼ」もどちらも愛らしい存在である。脚韻を踏みながら、軽やかに対句形式で詠い上げているが、「襲来」と「到来」の意味の差が読み手を考えさせる。「襲来」はよくないものや恐ろしいものがやってくること、「到来」は、到来物というように嬉しい贈物が届くこと。
本来は赤ん坊も神様からの贈物だ。しかし何故襲来と言っているのだろう。作者は最近初孫を得た。出産後の娘さんとともに赤ちゃんがやってきて、日常生活が忙しさで大変なことになっているのだろう。ひと世代前だったら、初孫を得た多くの女性が四、五十代だった。ところが今は六、七十代である。出産年齢が上がったとともに、おばあちゃん世代も高齢化した。四、五十代の体力と、六、七十代の体力とを比較してみると、「襲来」の一語におおいなる実感が込められていることがわかるだろう。いうまでもなく、初孫がやってきたことは嬉しいに違いないのだが、「孫」という言葉を使わずにこれだけのことを定型で表せるのは、並大抵のことではない。よくぞこのように人生の実感を詠い上げたものだ。
夕立くる母のミシンの音消える
くにしちあき
聴覚で捉えた現実の音と追憶の音。昭和生まれの私達の母親は、よくミシンを踏んで子供の洋服を縫ってくれたものだ。現代のような電動ミシンではなく、足踏み式のものであったから、その音も家じゅうに響き渡っていた。しかし、夕立が来ると、ミシンの音も消されがちだったエアコンもない昭和の家の様子が思い出される。「くる」と「消える」という二つの動詞を重ねて、夕立が来るや否や、ミシンの音が消えるという勢いを表している。私の母もそうであったが、私達姉妹の服はすべて手作りだったので、母は一日中ミシンを踏んでいたような記憶がある。今でも夕立の音を聞くと、作者の耳に甦る昔があるのだろう。
鴉二羽乗り込む雨の貸ボート
小倉京佳
「乗り込む」という表現から、たまたまボートに止まっているのではなく、雨で人間が乗っていないので、我が物顔にボートを楽しんでいるようだ。知能程度の高い鴉のことだから、晴れた日には人間達が楽しそうに操っている貸しボートを見下ろして、隙あらば、と思っていたのかもしれない。そのチャンスがやってきたとばかり占有しているのだろう。しかも二羽であるところまで人間達の真似をしている。