どんぐり 行方克巳
終活の一日どんぐり拾ふなり
九月の机上終活どころではないぞ
どんぐりに打たれて馬の瞬く
どんぐり降り止まずよ人の子を抱けば
梨剝いてくるるばかりのひとでいい
柔能く剛を制すてふこと秋の風
狐の面とればきつねや秋祭
淡交といふべし濁酒銜み
九 月 西村和子
生き急ぐ勿れと急かす法師蟬
釣瓶落し打出し太鼓止まぬ間に
百齢の百日過ぎし百日紅
萩叢に隠れ顔なり寺男
寺といふよりは庵の萩白し
よきにはからへ白萩の吹かれざま
酔芙蓉ゆふべの夢を手放さず
鎌倉の大路小路を秋の風
柿落葉 中川純一
秋海棠けふの心に薄日さし
鈴虫の籠を見据ゑて父拒む
みんみんの鳴き揃ひしがずれそめし
先棒は見目好き娘秋祭
雨宿りがてらに入りて新走り
心臓は年中無休掌には梨
手に取りて俳書科学書涼新た
裏庭を覆ひ尽くせし柿落葉
◆窓下集- 11月号同人作品 - 中川 純一 選
八月の長押に並びたる遺影
青木桐花
名残の蓮見目美しく開きけり
山田まや
祭礼の氷川の杜の灼けに灼け
大野まりな
八月がただただ楽しかつた頃
影山十二香
敗戦忌地に一点の翳りなく
中田無麓
清め塩四隅に撒かれ花火船
田代重光
夕焼やクレヨンしんちやん年取らず
井出野浩貴
文机を窓辺に据ゑて夜の秋
牧田ひとみ
自由と孤独背中合はせの秋の昼
津金しをり
八月の京の土産の黒七味
清水みのり
◆知音集- 11月号雑詠作品 - 西村和子 選
八月の怒りの声と祈る声
影山十二香
飲む打つ買ふ而していま生身魂
井出野浩貴
がにまたのくせに駿足油虫
磯貝由佳子
猫の目の光りて妖し夏の宵
石田梨葡
ひとつ啼きやがてみつよつ明易し
藤田銀子
母ゆらゆら日傘ゆらゆら径白く
田中久美子
道具より十指確かや草むしる
志磨 泉
学ぶとは灸花もう摘まぬこと
大塚次郎
少女らやドレスの如く浴衣着て
佐貫亜美
子の腕我より太し夏旺ん
佐瀬はま代
◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子
担ぎ屋の手首に輪ゴム汗拭ふ
影山十二香
「担ぎ屋」とは広辞苑には様々な意味が載っているが、最後に「野菜、米、魚などを生産地から担いで来て売る人。特に第二次世界大戦中や戦後、闇物資を運んできて売った人」とある。この句の場合は、一般的な重たい荷物を担いで来て売る人と受け取っていいだろう。その担ぎ屋が汗を拭ったとき、手首の輪ゴムに気づいたのだ。これを描いたことによって現実味が増す。その場で売るわけだから、メモや伝票をまとめるためとか、少量の売り物の袋を閉じるためとか、輪ゴムは必需品なのだろう。
夏芝居会場かつて養蚕所
石田梨葡
「夏芝居」とは本来は歌舞伎から来た季題だが、この句の場合は現代劇かもしれない。立派な劇場ではなく、かつて養蚕所だったところで劇が上演されるという点に、地方色を汲み取ることができる。地方に限らず、東京でも倉庫を改装した「ベニサン・ピット」という劇場もあった。
養蚕という産業が廃れてしまった現代、養蚕が盛んだった地方特有の現象なのだろう。
この作者は実に様々なものに目を向け、目を止め、描いている。働く人物像も例外ではない。この句の生き生きとした、人の動きを味わいたい。
敗戦忌言葉を閉ぢる為の口
田中久美子
口は本来ものを食べる為、ものを言う為の器官だが、この句は「言葉を閉ぢる為の」と規定している。その意図を考えると、敗戦忌に臨んで何か言いたいことは山ほどあるが、言葉の虚しさを知ってしまった時には、口を閉ざすしかない、そんな思いを感じ取った。
若い頃は個性的な、夢見るような作風だった作者が、六十代を迎えて思索を深めた作風に変化してきたことを、頼もしく思う。人生経験は俳句の深まりと無縁ではないのだ。