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知音 2024年1月号を更新しました


道連れに  行方克巳

てか/\のブロンズであり秋の河馬

働かず競はず勤労感謝の日

石叩行く手/\に水走り

夜を寒み五欲のほかの物思ひ

神の旅黄泉醜女を道づれに

青々と婆のほまちの冬黍畑

万太郎句碑
芥子粒の如きいろはや冬桜

初冬の鉄棒鉄の匂ひして

 

山  盧  西村和子

笛吹川越ゆやつやめく草紅葉

果樹園の烟むらさきだちて冬

松手入をりをり枝をうちふるひ

山並へ目を休めよや松手入

大山祗神を畏み柿簾

貫禄の竿を継ぎたり柿簾

銀杏ちる一色一途潔き

しづかなること林のごとき人の冬

 

雪の美肌  中川純一

秋夕焼五時のチャイムの空を染め

日曜の昼は娘の焼きし鯖

うそ寒や血圧下がりても頭痛

テラコッタとは講堂の秋の色

黐の実や実験室の窓に顔

すれすれの弧の張りつめてのすり飛ぶ

作務僧の手は休ませず鷹仰ぐ

斜里岳の雪の美肌に御慶かな

 

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

日蔭より日だまりしづか小鳥来る
井出野浩貴

攻め焚きの窯の火を噴く夜長かな
山田まや

刀自の間のシンガーミシン小鳥来る
青木桐花

サヨナラは夕三日月の改札に
米澤響子

騎手落しあつけらかんと祭馬
若原圭子

曇天に辛夷黄葉の発光す
佐藤寿子

落葉踏み広場てふ名の美術館
小山良枝

秋風やこの先頼む杖を買ひ
染谷紀子

サイロより高きアカシアもみぢかな
吉澤章子

秋の夜や卓にひろける旅土産
佐瀬はま代

 

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

桃すする夜盗さながら音ひそめ
藤田銀子

湖面より湧き立ちにけり虫時雨
井出野浩貴

ゆきあひの日射しにひらき秋日傘
牧田ひとみ

うつとりと木木生き生きと秋の雨
佐瀬はま代

ねぶた武者この世にあらぬもの睨み
石原佳津子

紅テント芝居はねれば虫の闇
三石知左子

休む間も言葉少なし松手入
成田守隆

藪枯獣のやうに仕留めけり
志磨 泉

無理せねば家業廻らず秋日傘
島野紀子

秋風や文鎮のせし案内図
磯貝由佳子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

稲妻や遠流の地にも田畑あり
藤田銀子

遠流の地といえば、隠岐の島や鬼界ヶ島のような島を思い浮かべる。そこに実際に行った時の作であろう。文学や歌舞伎などでは、遠流の地を詠んだり演じたりする場面があっても、日常生活が描かれているわけではない。劇的な場面や悲壮感を象徴するのが「稲妻」であるとすれば、「田畑」は日々の生活を表していよう。
この句を読むと、島流しにあった貴人や策謀家の悲劇的な場面だけでなく、その人、あるいはお供の人々が毎日何を食べて生き延びていたか、ということにまで思いが至る。数日間のことなら島人や村人が食べ物を恵んでくれることもあったろうが、数年間ともなると自ら田畑を耕して食料を調達しなければならない。悲劇の主人公たちもこのように生き延びていたのだということも思わせる作品。

 

十月の電信柱翔びたちさう
佐瀬はま代

「十月」が動くのではなかという不安もあるが、電信柱が翔びたちそうというのは、晴れ上がった風の秋の一日を思わせる。電線も軽やかに波打っているのだろう。この句は頭でまとめたものではなく、実景から得た実感に違いない。

 

コスモスやアンもアンネも夢描き
三石知左子

コスモスは少女好みのか弱げな花。実態はそうではなく逞しいらしいが、この句が季語として語っているところは、少女趣味の揺らぎやすい花である。「アン」は「赤毛のアン」、「アンネ」は「アンネの日記」。どちらも私達の世代が少女時代に読みふけった本だ。だからその名を聞いたかで、友達のように思い浮かべることができる。「赤毛のアン」のアンの夢と、「アンネの日記」のアンネの夢とは違うものだが、少女時代の切実な夢であったことに違いない。大人になって振り返ってみると、思春期特有の果敢ない夢であったと思うが、それだけに純粋で貴重だとも思う。