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2023年9月のネット句会の結果を公開しました。

◆特選句 西村 和子 選

サングラス一人になりて外しけり
小山良枝
サングラスの句は、大きく分けて2つの傾向があります。一つは、海がらみの情景や記憶を核にして詠んだもの。今一つは、自身の孤高や矜持あるいは妬心など、心模様の象徴として詠むものです。掲句は後者に属しますが、極めてドライに詠まれているところが特徴的です。歳時記の例句に取り上げられている句の中でも、思わせぶりの句も散見されますが、そんな句が続くと些か食傷気味になります。
掲句にはそういった思わせぶりな描写は一切なく、「一人になって外す」という行為のみを潔く詠み切っています。それでいて「孤」の時間のやすらぎの深さが、「行間」から伝わってきます。(中田無麓)

 

ビヤホール恋は囁くものなるに
奥田眞二
クスッと笑みが漏れるような、上質な俳味の滲む一句になりました。オジサンの愚痴(失礼!)を忍び聞いているような、可笑し味が宿っています。男女を問わず、ビヤホールの喧騒の只中にいることを若干疎ましく思いつつも、時代の流れに抗えないことは充分自覚している…。そんな哀感も漂っています。
掲句を音読すれば、呟きのような感覚が一層よくわかります。上五・中七・下五と下ってゆくほどにトーンダウンしてゆくような、独特の音韻になっています。ビヤホ―ルと勢いよくスタートを切った一句が、下五では勢いをすっかりなくしてしまっているのです。ローマ字表記だと下五はmononaruni。子音では、くぐもった印象のあるⅿ音とn音が、5音中4音、母音では口をすぼめるu音とo音が5音中3音を占めています。
尤も、結果として叙法と音韻がシンクロしたわけで、こんな計算をしながら俳句を創れるわけではありませんが、好句にはこういった余禄がしばしばあるものです。(中田無麓)

 

乾びゐる蚯蚓引く蟻たゆむなく
田中花苗
客観写生に徹していて句意平明。しかも「蟻とキリギリス」に代表される、一般的な蟻のイメージから、一歩たりとも逸脱することはありません。それでいて、掲句が力を持っているのは、「乾びゐる蚯蚓」に強烈なリアリティがあるからです。
アスファルトの上の干からびた蚯蚓は誰しも見た覚えがあるでしょう。夏の光がその骸に容赦なく照り付けてきます。一句に詠まれているのは、高々10㎝四方のミクロクスモスの世界ですが、真夏の大空間まで想像が及ぶ、力強い一句になっているのです。(中田無麓)

 

夏燕仰ぐ警備の腰伸ばし
小野雅子
暑い盛りを警備という過酷な仕事に就いている方へのねぎらいと敬意が一句から滲み出ています。昨今のことゆえ、お歳を召した方でしょう。「腰伸ばし」という動作からうかがい知れます。作者は、自分の感じたことを直接語っているわけではありません。ただ、警備員に心を寄せていることは、客観描写からわかります。句材に選ぶことからして、それは明白です。写生に徹して心を寄せる…。蓋し、俳句の骨法に適った一句と言えるでしょう。
夏燕という季題も効いています。飛来してくる春、帰り支度の秋とは異なり、夏燕は、定住という安定した環境下で、自在に活動する時期の燕です。自由に飛翔する燕と、一点を離れることができない仕事、自由と束縛の対比構造も際立っています。他にも、静と動、天と地、壮と老など、いくつもの対比構造が隠し味のように組みこまれているところも巧みです。
誰もが等しく見る光景で一句を成す…。これも好句の条件の一つです。(中田無麓)

 

夢の中まで探し物明易し
水田和代
明易しは、短夜の傍題として立項されていますが、夜の短さへの嘆きは、明易しの方が勝ると解釈するのが通例になっているようです。まさに後朝の伝統が現在に至るまで、踏まえられているわけなのですが、悠長な平安貴族とは異なる、令和の現代人は、そうも言ってられません。夢の中まで探し物に追われて覚めればもう朝。夢から覚めてほっとしたような、もう少し寝たかったような…。複雑な思いが令和の明易しに籠められている気がします。
一句は極めてシンプルで平明、晦渋な点など一切ありませんが、中七から下五にかけての句またがりに工夫があります。句またがりによって、夢の中の探し物の時間の長さがそれとなく表現されているのです。結果的に、一句のアクセントとして働いています。(中田無麓)

 

水筒を並べ麦茶を満しゆく
小山良枝
複数の水筒に麦茶を入れてゆくのですから、家族の分、もしくは部活動など、何らかの集団活動の準備風景でしょう。一見、行為をそのまま写し取ったような句に見えますが、麦茶を飲む当人たちへの思いが籠められています。その鍵を握るのが、「満たす」という動詞を選択したことです。別の動詞に入れ替えてみればどうなるでしょう?
たとえば…

水筒を並べ麦茶を注ぎゆく

同じ行為を詠んでも、「注ぐ」では、その行動はどちらかと言えば機械的であり、感情が籠る余地はあまりありません。それを「満たす」に替えれば、「どうか、充分に飲んで、熱中症にならないでほしい…」などといった、願いや祈りのニュアンスまで、加えることが可能になります。
俳句は名詞の文学と言われますが、動詞の選び方も、作句のとても重要な要素になります。(中田無麓)

 

背中にも眼のありにけり油虫
千明朋代
面白いことに油虫、ゴキブリの例句には、取合せの句がほとんどなく、大半は一句一章の一気に詠み下すスタイルです。強烈な印象を与える季題だからでしょう。
掲句も形の上では、中七の「けり」で強い切れを設けていますが、内容的には、一句一章の詠み下しの叙法です。そして、歳時記の例句に勝るとも劣らない強烈な印象を読み手に与えています。
掲句の凄味は、「背中に眼がある」と言い切ったところにあります。もとより背中に眼などあるはずもありませんから、この表現は比喩の一形式だと言えます。それを強い調子で断定したことで、油虫の存在感が一挙に増しました。因みに同じ比喩表現である直喩を用いれば、どうなるでしょう?
たとえば…

背中にも眼のあるごとく油虫

これでは、ゴキブリの不気味な存在感も、予測不能な俊敏な動きも表現できません。
思いの強さを断定の暗喩に託すことで初めて、カフカの『変身』に出てくるような虫のプレゼンスに到達できるのです。(中田無麓)

 

梅雨湿り採血室に窓ひとつ
田中優美子
具体的なものだけを描写することで、心象風景まで見えてきます。それが、梅雨湿りという季題の力です。
加えて、「窓ひとつ」という設定がとても巧みです。
取調室のような不安と焦燥なの
か?
それともささやかに設けられた希望の窓なのか?
おそらくそのどちらでもある
のでしょう。採血室に居る時間は、ほんの数分でしょうが、その短い時間を永遠と感じさせるような心模様を鮮やかに表現されています。
一句に用いられている言葉は、誰しもが知っている日常語ばかりです。雅語を使わなくても一句を成せる好例です。(中田無麓)

 

思ひ出もハンカチーフも色褪せし
鈴木ひろか
「思ひ出」という感傷的な言葉を用いながら、冷静な感情が滲み出ているところに一句の味わいがあります。「ハンカチーフ」が安易な感傷を防いでいるからです。この句のハンカチは『木綿のハンカチーフ』や『幸福の黄色いハンカチ』(古い!)のような象徴的で意味性の強いものではありません。ごくごく日常的な具体的な事物に過ぎません。それを「思ひ出」と並列に置いたことで、一句に奥行が生まれました。
「大切な思い出も、ふだん使いのハンカチも、色褪せてゆくことに変わりはない」というある種の達観が上質な俳味につながっていると見ました。(中田無麓)

 

冠水のさま口々に出水後
松井洋子
冠水とは、田畑や作物が水をかぶることですから、事は深刻です。にもかかわらず、その有様を語っているというのです。何という胆力でしょうか。大抵は打ちのめされれば、言葉を失うはずです。少々のことではへこたれない腹の据わり方が一句の魅力です。
一句のポイントは「口々に」にあります。これで、複数の人があたかも井戸端会議のように状況を報告し合っている様子がわかります。冠水による被害の軽重のほどは、一句からはもとより明らかではありません。それでも、この有様からは、大地に生きる人々の逞しさが自ずと伝わってきます。作者の感興の核もおそらくそこにあります。
その核を発見できて初めて、一句に詩性が宿ります。(中田無麓)

 

 

◆入選句 西村 和子 選

川原湯をちょんちょんちょんと川蜻蛉
(川原湯にちょんちょんちょんと川蜻蛉)
辻本喜代志

釣竿を大きく振つて鮎解禁
(釣竿の振りの大きく鮎解禁)
小野雅子

青鷺の哲学者めく佇まひ
小野雅子

夕凪や見つめるだけで揺るる草
平田恵美子

父と子の跣そっくり三尺寝
(父と子の跣そっくり昼寝かな)
深澤範子

夏木立部活バッグを引つ提げて
田中優美子

午後からの風に波立ち蓮青葉
鈴木ひろか

坪庭の棕櫚の葉青し屏風祭
板垣もと子

遠雷や犬の突然走り出す
深澤範子

江の島の波サーファーを追ひ続け
奥田眞二

ソフトクリーム冷たしジェンダー論熱く
(ソフトクリームひんやりジェンダー論熱く)
田中花苗

夕風や青田の何処より揺るる
(夕風や何処より揺れ青田原)
松井洋子

青芝や跳んで色とりどりの子ら
(青芝を跳んで色とりどりの子ら)
松井伸子

みんみんに目覚め朝刊来たる音
(みんみんに目覚め新聞来たる音)
飯田静

鳥威し揺れて銀色唐棣色
板垣もと子

葱刻む無心無心と唱へつつ
鏡味味千代

穴子めし郷里の暑さ思ひつつ
森山栄子

百貨店とは巨大なる納涼船
中山亮成

白南風や浜に黄色の小屋が建ち
(白南風や浜に黄色の小屋建ちぬ)
鈴木ひろか

蛇口からぬるま湯の出る熱帯夜
飯田静

シャンパンのポンと響けり夏夕べ
平田恵美子

青鷺や億劫さうに飛び上がり
長谷川一枝

大暑の街歪みトラムのガラス窓
松井洋子

山青し冷やしトマトにかぶりつく
(山青し冷やしトマトをかぶりつく)
長谷川一枝

梅雨明の草も力を抜きてをり
水田和代

花火の夜このまま逢へぬかも知れず
巫依子

トラクター草を鋤き込む炎天下
田中花苗

青葉潮橋杭岩の頼もしき
藤江すみ江

あやふやなところ鼻歌髪洗ふ
鏡味味千代

人声の風に乗り来る合歓の花
三好康夫

コンサートの余韻夜涼のホームにも
小野雅子

白靴に羽の生えたり雨上り
小山良枝

この池の居心地よささうあめんぼう
(この池の居心地善さげあめんぼう)
小松有為子

軽トラック先に行かしめ青田風
森山栄子

紅蜀葵ひとつ萎みてひとつ咲き
水田和代

締込みの怒涛の気合追山笠
木邑杏

自販機に屯する子ら熱帯夜
鈴木ひろか

公園は空つぽ滑り台灼け
(公園の空つぽ滑り台灼けて)
鏡味味千代

草むしる魂宙にあそばせて
千明朋代

丸窓を残し館の蔦青葉
鈴木ひろか

老いらくの気力養ふ土用鰻
若狭いま子

歯を見せて笑ふ海豚よ夏休
(歯を見せて笑ふ海豚よ夏の昼)
藤江すみ江

からすうり指折るやうに花を閉ぢ
松井伸子

熊野灘まなかひにして梅雨晴間
(熊野灘眼間にして梅雨晴間)
藤江すみ江

青墨の文字の涼しき白暖簾
松井伸子

炎天下ビル光りつつ歪みけり
小山良枝

マトリョーシカ買ひぬ白夜の乗り継ぎに
(マトリョーシカ買へり白夜の乗り継ぎに)
奥田眞二

赤紫蘇をきゆつきゆと鳴かせ揉みにけり
(赤紫蘇をきゆきゆと鳴かせて揉みにけり)
小松有為子

冷房や待合室のオルゴール
田中優美子

私服着て通ふ講習夏休
飯田静

白檀の扇子の蝶の透かし彫
中山亮成

短夜の鳥の声より明け初めぬ
鎌田由布子

素うどんに梅干載せる昼餉かな
板垣源蔵

日帰りの旅の話と葛饅頭
板垣もと子

 

 

◆今月のワンポイント

「日常を詩に昇華させる

寄物陳思ということばがあります。物に寄せて思いを述べるという意味です。もともとは、万葉集の作歌方法のひとつで、上の句で写生し、下の句でそれを受けて感情を述べる作歌の型です。和歌なら七七で陳思できますが、俳句には下の句がありません。
寄物陳思を五七五で収めないといけません。当然陳思の分け入る余地はないように思えますが、言葉の用い方次第で、直接的な感情を述べることができます。これこそが俳句の醍醐味のひとつと言えるでしょう。
今月の特選句には、客観的な描写に徹していながら、描写のなかで自ずと思いが滲み出てくる佳句が多く見受けられました。しかも、ほとんどの句が、誰しもが見たことのある風景を誰しもがわかる言葉で詠まれています。しかも、日常が詩として、しっかりと昇華されています。
詩性が宿るかどうかは、言葉の用い方次第です。動詞の適切な選択であったり、思い切りのよい暗喩を用いることであったり、象徴として物に重みを持たせることであったりと方法論はいくつかあります。
もとより、最初から完成句ができるわけではありません。詩として昇華できるか否かは、最後の推敲にかかっています。丁寧な推敲こそ、詩になるかどうかの分かれ道です。そして詩のタネは、日常の中に無尽蔵に埋蔵されているものです。

中田無麓