昭 和 の 日 行方克巳
閑居して不善なすなり花は葉に
花大根泳ぐごとくに少女らは
潮干狩追ひ立てられしごとく散り
潮干狩父をはるかにしたりけり
豊饒と鬱の五月の来りけり
パレットの緑あまさず五月来る
ほのぼのと昏れて昭和の日なりけり
元寇の昔ありけり水馬
懸 り 藤 西村和子
若葉跳ぶ横須賀線も久しぶり
沿線の若葉歓喜の声を上げ
雨霧のうすれきたりし懸り藤
切通しひとすぢ違へ懸り藤
展望の春山不変虚子御墓所
矢倉墓藤の散華の昨日今日
谷戸深き雫仰げば懸り藤
木下闇謎もろともに葬られ
潮 干 狩 中川純一
すぐそこに父の享年昭和の日
還らざる鉄腕アトム昭和の日
今もなほ五時にはチャイム昭和の日
少年は何でも博士潮干狩
ちょい悪のパパも家族と潮干狩
うつけ者なるぞよ山の蠛蠓は
いやらしく舌ひんまがり蝮草
飛花落花峯の薬師の鐘撞ける
◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選
縫初や入歯となりし糸切歯
山田まや
母の雛子の雛飾り昼ひとり
高橋桃衣
露天湯の先は混浴山笑ふ
染谷紀子
焼べ足して話の続き春暖炉
森山淳子
峰々を結ぶ鉄塔山笑ふ
青木桐花
入日影鍬ふりあぐも春景色
吉田しづ子
鬼やらひ我が家に鬼は己のみ
折居慶子
山笑ふ孔雀は羽で息をする
影山十二香
駅弁の紐の薄紅春めけり
佐瀬はま代
早春や幼の三トン未だ取れず
村地八千穂
◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選
二個焼いて二個とも我の雑煮餅
吉田林檎
人づてに訃音のとどき春の雪
井出野浩貴
希ふ窓の明るさシクラメン
高橋桃衣
学帽の角のふつくら春の風
志磨 泉
みづうみに中洲を残し鳥帰る
井戸ちゃわん
冬深し眠ることふと恐ろしく
山田まや
しわくちやの解答用紙冴返る
菊池美星
待ち合はす文楽劇場春の雪
岡本尚子
春の野を転がり帽子楽しさう
亀山みか月
をさな子の声沈丁を驚かす
立川六珈
◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子
言ひ訳にしはぶき咳に言ひ訳す
吉田林檎
「しはぶき」は動詞だろう。職場を休む時、約束が果たせない時、締切に遅れる時、言い訳をしながら咳をすると、電話口でも説得力が増す。そこまではよくあることだが、この句の後半は現在の疫病の世界的感染拡大と多いに関わりがある。会議室など人前で咳が出たとき、感染症ではないということを慌てて言い訳しなければならない。ちょっと水が喉につかえてとか、温度差に気管支が反応してとか、新型コロナの症状ではありませんよという言い訳を私達はずいぶんしてきた。
言い訳するときに咳をする。咳をしても言い訳をする。そのおかしさに興じた句。こんなことも現代の世情なればこそ俳句になった。
朝寝して六十九の誕生日
高橋桃衣
この句は六十代最後の誕生日という点が物を言っている。一般的には六十代の終わりといえば子育てはとっくに終わり、子供のために朝食を作ってやる母親の仕事から解放される。両親もすでに見送っている人が多い。「子供が終わると親に手がかかる」とは、私達女性がよく口にしたり耳にしたりしたことだが、親を見送った後は自分に手がかかる。六十九歳はそれまでにはまだ間があるといったところか。
朝寝をしても家族の誰にも迷惑をかけない。そんな時期が来たことを多いに楽しんでいる句だ。
脚本の手擦れ折癖鳥雲に
志磨 泉
脚本に手擦れがあったり折癖がついていたりする、ということは演劇人のものだろう。季語から察するに、これから上演されるものではなく、過去のものと思われる。どこかに展示されていたものか、自分のかつての活動に関わるものか。
「鳥雲に入る」という季語は、冬鳥が春になって北へ帰って行くときの様子をいうものだが、実際の景よりは月日の流れや人生の感慨を託す季語として用いられることが多い。こんなにまで脚本を常に手にして覚えたり確認したりした日々を懐かしんでいるのか、遙かに思いやっているのか。