乙 張 西村和子
秋蟬のとほき満ち干の未明より
供香よりひと日始まる濃龍胆
秋蟬の乙張も失せ呂律失せ
小気味よく水弾きけり秋茄子
束ねてもコードくねくね秋暑し
おしろいの花や病める児覗きをる
窓掛がゆらぎたるのみ家の秋
無花果や婚姻色を秘めゐたる
おしいつく 行方克巳
くびくくり坂の向日葵くびくくり
陸続として向日葵の絞首刑
朝顔や朝つぱらから死のはなし
テーブルの一点舐めて秋の蠅
ふと苦き思ひよぎれり桃を剥く
少しづつ夜の崖崩れ葛の花
今生のおせん転がしおしいつく
宗論のはてのだんまりおしいつく
子目高 中川純一
子目高を数へて話そつちのけ
一週間だけの長幼目高の子
朝顔を叩きゐし雨小休止
秣干す日高の秋日鋤き込んで
均されし空地に呆け猫じやらし
シャツの背にすがる啞蟬何とする
長雨に飽いてしもたと蚯蚓鳴く
新涼や母もたのみし手摺棒
◆窓下集- 10月号同人作品 - 中川 純一 選
一つ事念じて茅の輪くぐりけり
前田沙羅
馬の仔の膝のびのびと風の中
大橋有美子
形代に我が名楷書で記しけり
村松甲代
顔見えぬ乍らの会釈木下闇
村地八千穂
母の日を羨む父に父の日来
三石知左子
聖五月デルフト焼の藍の濃く
𠮷田泰子
梅雨深し検査ベッドに横たはる
池浦翔子
蜥蜴現る鎌倉殿の化身なり
藤田銀子
鬼やんまの目もて私を見てゐたる
山本智恵
汐の香の髪を解きてサングラス
橋田周子
◆知音集- 10月号雑詠作品 - 西村和子 選
スキップの子とすれ違ふ緑雨かな
吉田林檎
水の星讃へて鳰の浮巣かな
井出野浩貴
腸の捻れ戻りぬ青嵐
岩本隼人
黄金週間急に子の来てすぐ帰る
小池博美
嘘すこし混ぜるも本音半夏生
藤田銀子
聖堂の柱ひんやり日の盛り
くにしちあき
指図する母のいまなき盆用意
清水みのり
更衣老い先有りと疑はず
石田梨葡
夏来たり歩道橋より町眺め
立川六珈
草を引く腰をのばせばまだ半ば
平岡喜久子
◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子
氷菓食ふ有給休暇取れし日は
吉田林檎
この句のポイントは最後の「は」である。この助詞一つで、作者の通常の暮らしぶりを語っているのだ。働き盛りの年代の人々は、有給休暇といえどもなかなか取れないのが現状だ。久しぶりに有給休暇が取れた日、アイスクリームを買って食べた。そのことが忙しい自分に対するご褒美でもある。贅沢なケーキや高価なワインなどではなく、「氷菓」であるという点に非常に親しみを覚える。欧米社会のようにバカンスが一ヵ月というような暮らしぶり、働き方は日本はまだまだ遠いのだ。
初節句この子いつでも泣いてゐる
小池博美
初節句であるからには、親族の赤ちゃん、お孫さんであろう。孫を詠んだ句に佳句は少ないが、この句は孫可愛さの句でない点目を引いた。「この子いつでも泣いてゐる」とは、おばあちゃんの句としてはかなり冷静で突き放した詠みぶりである。もちろん口に出して言えることではない。しかし生まれてまもない赤ん坊というものはこんなものである。初節句を喜んでいるのは両親とその両親たちばかり。着慣れないものを着せられて、普段いない大人たちに覗かれ抱かれ、かわいい、かわいいと言われても当人は居心地悪いことこの上ない。孫がかわいいのは万人共通のことだが、自分だけにかわいいのであることを孫俳句の作り手はどこかで意識していなければならないと、自戒をふくめて常々思っている。
底紅やふと妹の幼顔
清水みのり
「底紅」とは花の底だけ紅く、はなびらは白い木槿のこと。多分幼いとき暮らした家に咲いていたのだろう。白木槿よりも印象的であるし、かわいげがあるので、妹と遊んだ記憶と結びついているのだ。その花を見たとき、現在の妹ではなく、幼いときの妹の顔が思い浮かんだ。言うまでもなく作者自身も幼かりし頃、両親も若かった頃。昔から変わらない花には人々の記憶と結びついている背景があるのだ。その点でこの句の季語は動かない。