待ち伏せ 西村和子
首すぢに大暑の初光刺さりけり
垂直の千の沈黙青葡萄
向日葵の待ち伏せに会ふ夜道かな
短夜の寝覚の水腥き
短夜の川より衢明けにけり
川風に明易の床浮くごとし
落蟬やわが戸叩きてこときれし
子へものを書けば遺書めく夜の秋
山椒魚 行方克巳
ロック座の裏に目高を飼ふ男
山百合を抱へて死者に逢ひに行く
夏炉焚くシェヘラザードの物語
蛍火や千夜一夜のひとよにて
明滅の滅を数へて蛍の夜
あとかたも残さざるべく蛍の夜
汕頭のハンカチーフのやうな嘘
似てゐると思ふ山椒魚とわれと
流れ星 中川純一
母馬を見つつ仔馬の試し駆け
吹き上ぐる海霧に嬲られ蝦夷黄菅
連射砲めきし打水馬鈴薯へ
恋螢はらとこぼれてついと舞ふ
流れたる星の尾を断つマストかな
短夜の聞き慣れぬ鳥さつきから
託児所の満艦飾の星の笹
寝冷えしていつのも台詞パパ嫌ひ
◆窓下集- 9月号同人作品 - 中川 純一 選
雲蹴つて蹴つてあめんぼ雲の上
高橋桃衣
刻刻と樗の花は灯の色に
吉田しづ子
梅雨鯰己が濁りに隠れけり
福地 聰
ソーダ水裏腹なこと言ひ続け
岡本尚子
かくて二人黙々と枇杷啜りけり
鴨下千尋
母に添ひ歩行訓練夏木立
月野木若菜
風不死も恵庭も夏の霧の中
中野のはら
梅雨晴の内地より来て蝦夷の雨
永井はんな
神殿の眼下五月の地中海
大野まりな
桜蕊降る棟梁の大工箱
志磨 泉
◆知音集- 9月号雑詠作品 - 西村和子 選
其の人も同じ鉢買ひ桜草
山田まや
吹流し漁師継げよと言はねども
藤田銀子
軽鳬の子がゆく横になり縦になり
井戸ちゃわん
ラーメンに玉子を落とす昭和の日
吉田林檎
我がための新茶を買うて帰りけり
磯貝由佳子
古民家と呼ぶには廃れ花楓
石原佳津子
父の日の子よりの電話妻が待つ
福地 聰
ハンカチを結びて母の旅鞄
乗松明美
余り苗にも山越しの余り風
中田無麓
蟇ちょつと苛めてみたくなる
高橋桃衣
◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子
見舞はざることも有情や春の月
山田まや
疫病流行の時節柄ということも考えられるが、この句はもっと深い情を語っていると思う。病気であることを知ってすぐにも見舞いたい間柄なのだろうが、あえて見舞わない。それは情がないということではなく、あえて見舞わないことも情があることなのだ、という句である。春の月を眺めて、病室からもこの月を眺めているであろう病人を思いやっている。八十代後半の作者の年齢を考えると、病んで衰えているときにその姿を見られるのは、自分でも望まないことであろう。だからこそこうした句が生まれたのであろう。人生経験を重ねた人には共感を呼ぶ作品である。
喜ぶも呼ぶも拒むも囀れる
吉田林檎
先日「ダーウィンが来た」を見ていたら、小鳥たちの鳴き声にも言葉と同じような意味があるらしい。人間の耳には同じ囀りとしか聞こえないが、警戒を発しているとき、餌のありかに呼んでいるとき、愛の表現、それぞれ使い分けているということだ。この句を読んでそれを思い出した。
「囀り」という季語は、鳥の恋の季節が春なので春のものになっているが、大雑把に恋の季節とはいっても、喜んでいるとき、呼びかけているとき、拒んでいるときがあるだろう。作者の耳にはそれが聞き分けられているのかもしれない。
新茶汲む今なら母と何語らん
磯貝由佳子
お母さんはもうこの世にいないのだろう。作者は今年還暦、新茶をゆっくり味わいながら、お母さんのちょうどこの年齢のころを思い出したのだろう。あのころ自分は若かったから、お母さんが何を思っていたのかわからなかった。今自分がこの年齢に達して、子供もあのころの自分と同じ年代になった。今お母さんが元気でいたら、子育てのこと、人生のこと、何を語るだろうか。そんな心の余裕を語っているのが季語である。子育てに必死だったころ、生活し盛りだったころには、新茶をゆっくり味わうというような時間も心の余裕もなかった。