梅雨籠 西村和子
七変化住み替はりしはいくたびぞ
紫陽花や小路隠れといふ昔
梅雨めくやどこかで鋼削る音
梅雨雲の行方たしかむ鼻眼鏡
門古りぬ枇杷の大木もてあまし
梔子のくりいむ色の絞りたて
小窓よりチェンバロの音時計草
香炷きて彼の世の人と梅雨籠
父の日 行方克巳
父の日のなき歳時記を持ち古りし
父の日の父やついでのやうにゐて
日めくりの三日四日過ぎ父の日は
劇中劇のごとくハンカチ落しけり
しどろもどろ汗のハンカチ握りしめ
世渡りの抜手を切つて男梅雨
紫陽花のぼつてり感が一寸いやみ
いま何か踏ん付けたるは蟇
姫 鱒 中川純一
支笏湖の姫鱒旨し風旨し
ボート番をらざり湖の波つのり
道産子にサラブレットに風光る
捨て浮標を蹴れば舟虫跳ね出しぬ
六月の波寄せて時還らざる
紫陽花を揉みゐる風が雨呼んで
首タオルしてハンカチとおさらばす
わが庵は代田の下手蟇ぞ鳴く
◆窓下集- 8月号同人作品 - 中川 純一 選
一保堂新茶解禁あと二日
島野紀子
五月来ぬ水にやどれる森の色
井出野浩貴
砂の字の訳なく消ゆる啄木忌
原 川雀
藤房に見蕩れてをれば熊ん蜂
村松甲代
ボール跡壁にそのまま卒業す
國領麻美
拗ねてゐる子に空豆を剥かせけり
鴨下千尋
陽炎やモアイの如く人の影
井内俊二
いち早く少女半袖夏来る
福地 聰
このままぢやあ轢かれてしまふ蜥蜴つるむ
前田沙羅
塩鮭の鱗の光る台秤
田代重光
◆知音集- 8月号雑詠作品 - 西村和子 選
柄杓よりこぼるる光甘茶仏
藤田銀子
窓からは見えざりし雨楓の芽
井出野浩貴
栗の花一人で通るとき匂ふ
田中久美子
水分の北も南も田水張る
中田無麓
若葉雨釈迦の腋下を彫り進み
米澤響子
甲板にあごの飛び込む定期便
田代重光
西暦に記す生年昭和の日
中津麻美
小綬鶏の鳴くや仲間が欲しいよと
谷川邦廣
松茸の一片紛れ土瓶蒸
栗林圭魚
渋滞の窓よりしやぼん玉ぷかり
廣岡あかね
◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子
蝶生る愛さるること疑はず
藤田銀子
「蝶よ花よ」という言葉があるように、慈しみ愛して育てる象徴的なものが蝶である。いうまでもなく季語なのだが、この句の場合は季語の象徴性ということを意識して読んだほうが味わいは深まる。だれもが生まれたときは親に愛されることを信じて疑わずにこの世に出現する。しかしながら様々な事情によって、誰もが幸福な生い立ちを保証されているわけではない。
蛹から羽化した蝶を目の当たりにしたとき、気味悪い虫がこんなにも美しく変身する感動を覚えるものだ。そのとき、美しいものだからというわけではなく、新たな命の誕生について思いを巡らしてできた句だろう。
山巓に伽藍ちんまり椎若葉
米澤響子
京都の景色だろうか。この句から青蓮院の別院を思う人も多いだろう。町なかから東山を見渡すと、山の天辺に伽藍が平成になって出現した。初夏の東山は椎若葉がもくもくと盛り上がって山並が生き物のように見える日々がある。そんなとき、山の頂上に伽藍がちんまりと鎮座している光景を詠んだものだろう。
下から仰いでも、あそこから京都市内を見下ろす光景はいかばかりだろうと思われる。行ったことのない人にはぜひ一見をお勧めしたい。
夏蜜柑無粋不細工無愛想
田代重光
まず気付くことは、十七音すべて漢字である。見るからに硬い句だ。夏蜜柑は冬の蜜柑とちがって皮が厚くて硬く、なかなか爪が立たない。表記の硬さはそれを表しているようで、おかしみがある。しかも「無粋」「不細工」「無愛想」というわけだ。音読してみると、この濁音の繰り返しが効果的であることに気付く。しかも味は、近年ますます甘くなった蜜柑に比べると、いつまでたっても酸っぱい。
機知の句であるが、根本に写生と実感があることを忘れてはならない。