霧の香 西村 和子
街路樹の野分の傷の青臭き
小鳥来る潮いたみせし大樹にも
前山の霧湧く音か谿声か
端近に坐せば霧の香谷の音
霧流れ前山の時とどまれる
杉山の気息に応へ霧蒼し
翔り啼く山鳥霧を劈きて
秋の夜の旅の終はりのカルヴァドス
あんぱんの臍 行方 克巳
年寄の日の年寄の一人なり
戦跡の霧の一斉蜂起かな
せんもなき噂ばかりや悪茄子
あんぱんの臍が塩つぱい秋出水
秋風や腑分けの如き江戸古地図
秋風や本の匂ひの本の虫
息ひそめをればけだもの夜の鹿
さ牡鹿の夜々の渡りの水無瀬かな
◆窓下集- 11月号同人作品 - 西村 和子 選
麦秋の野に佇つ女胸巨き
島田藤江
梅雨いまだ富士山隠し海を消し
高橋桃衣
日の差してたちまち夏の海となる
くにしちあき
武家屋敷質実剛健花南天
栃尾智子
海底に沈む大陸雲の峰
小倉京佳
廃業の奥に住まへり柿若葉
中野トシ子
緑蔭のシャンパングラス夕日影
國司正夫
峰雲や大局見よと父の声
難波一球
髪結つて浴衣着て下駄つつかけて
田中久美子
降り出して匂ひたちたる茅の輪かな
吉田泰子
◆知音集- 11月号雑詠作品 - 行方 克巳 選
茶杓銘願の糸の今宵かな
山田まや
流れ星消えて危ふき星にわれ
中川純一
「黒いオルフェ」流るる喫茶店晩夏
松重草男
風見鶏西日の海を向きしまま
前田星子
白南風やささ濁りして千曲川
前田沙羅
ひたすらに草の丈縫ひ秋の蝶
本宿伶子
水族館に昭和レトロの金魚売
原 川雀
クラクションに足竦みたる溽暑かな
橋田周子
塗り終へし荘のベランダ日脚伸ぶ
難波一球
蜥蜴疾走灼熱のアスファルト
月野木若菜
◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳
天の川年々に夫遠くなり 山田まや
私は全くドライな人間だから、人が死んで肉体が滅ぶのと同時にその人の魂も何もかもすべて過去のものになってしまうと考えている。しかし、それはあくまで私一個人の上に言えることで、誰もが異なる死生観を持っていることも理解している。まやさんについて私がどれほど知っているかは分からないが、きっと彼女は亡きご主人と毎年星会の夜に逢うことが出来るということを信じる人だと思う。それなのに今、天の川を仰ぎながら、夫君が少しずつ遠くなって行くのを感じている。それは自分が冷淡になりつつあるのだろうか、とそのように自問しているのではないか、とも思う。いいえ、そうではない。何となく遠くなって行くと感じるのは夫君があなたの胸に宿った悲しみを、少しずつ軽く淡くさせてくれているのですよ―――。
星がまた飛んで涙の乾きけり 中川純一
涙という文字を見て、オレはいつから涙を流していないのか、ということをふと思った。すぐに消極的になってしまう自分なのに、何時からか考えると涙を少しも流していない。
さて、作者に何があったのかは分からないが、いくつかの流星を数えているうちに、涙が乾いたというのである。でもこの涙は悲しみの涙ではないかも知れない。大きな自然に抱かれている自分を強く意識した時にも涙は出る。もしかしたら、思いがけず美しい流れ星が彼の視野を大きく横切ったのかも知れない。何も言っていない句だから、連想は様々に広がってゆく。
蟻はどこでどう休むのだらうか 松重草男
「燕はいいねエ、のんきそうに飛んでサ」とはよく言われることだが、とんでもない、句帳片手に燕を見ている方がよっぽど呑気なのですね。蟻は人間によく似た社会を営んでいるというけれど、確かにその実態は分かりにくい。働き蟻は死ぬまで働き続けるって本当?私たちが見掛ける働き蟻は確かに休むことなど知らぬげに動き廻っている。この句、作者のやさしさが滲み出た一句―――。