窓下集 - 6月号同人作品 - 行方克巳 選
知音集 - 6月号雑詠作品 - 西村和子 選
紅茶の後で - 6月号知音集選後評 -西村和子
春寒し無職となりて殊の外
谷川 邦廣
「無職となりて」とは、はっとさせる言いぶりだが、作者が古稀であることを思い合わせると、二重の意味を持ってくる。 働き盛りの年齢で無職になるのはただならぬ状況だが、定年の後までも勤めあげた上でのことであれば、世間も家族も当然のこととして労ってくれるだろう。 しかし、今まで何十年も懸命に働いてきた身としては、今年の春の寒さは殊の外身にこたえるのだ。 例年ならば三月末は決算期、四月には新人を迎え、新たなスタートを切るべく張りきって業務に向かっている時期なのに、退職後はとりたててするべきこともない。 春なのにやけに寒い。 いつもこうですよと家人は言うが、やはり無職になったせいかなと思う。 人生の今にして詠み得た一句と言えよう。
余寒なほ母の身ぬちの摂氏零
田中久美子
これも春の寒さを詠んだ句。冬に寒いのは当りまえのこととして耐えていられるが、春になっても余寒が襲ったり、冴え返る日があると、人の心は怯むものだ。 そんな心の状態を「摂氏零」と表現した誇張が効いている。
お母さんがこのところ不調のようだ。体調が悪いのでは、風邪でもひいたのでは、と心配して体温を計ってみる。 べつに熱があるわけでもない。 そうしたいきさつがあってこその「摂氏零」の発想だろう。 本人は平熱だと言うけれど、お母さんの身体のもっと奥深いところ、心の中は冷えきっている。 いや、凍ったままだ。 この春は余寒がいつまでも続いて、元気な人でさえ滅入る気候だが、胸中の氷はいったいいいつ解けるのだろう、と思いやっている句だ。
娘の、母を思う心が私には切々と伝わってくる。 父を無くした後の母が、まさにこのとおりだった。 世の中は春よ、と連れ出してもみた。 娘としての切なさも伝わってくる句だ。
バスを待つ雪の駅前食堂に
井出野浩貴
雪が降っていても、少し待てば来るバスなら、食堂に入ることはあるまい。 このバスは一時間に一本とか、一日に数本といったものなのだろう。 雪はどんどん降ってくる。 駅前に一軒だけ食堂がある。 そこだけ電灯が灯っている。 そんな雪深い地の駅と食堂を思い浮かべた。
引き戸を開けると(自動ドアではない)、中にぱらぱらと客はいるが、だれも次のバスまでの時間をもてあましているらしい人だ。 うどんやラーメンなど、体が温まるものを注文している。 熱燗を傾けている一人客もいる。 注文したものが出て来るまでの間に、この一句ができたのだろう。
フーテンの寅さんや、昭和の映画によく出てくるような駅前食堂。 かつて体験したことのある時間と場所。 そういったものを呼び起こす懐しさ、淋しさの中の温もりのようなものが、この句にはある。