窓下集 - 3月号同人作品 - 行方克巳 選

小鳥来て猫来て終の住処なる
井戸村知雪
聖歌集ケットの膝に開きけり
廣岡あかね
聖夜てふ罪の匂ひのする夜かな
天野きらら
ほろほろと骨ほろほろと零れ萩
小池 博美
熱燗や店の裏口潮匂ふ
島田 藤江
塩鮭の恨みつらみの目玉かな
原田 章代
露草の露しぼりきる瑠璃ならめ
前田比呂志
どこまでが本当の話おでん酒
馬場 白洲
懸崖菊黄色ははしやぎ赤寡黙
永井 千草
話すこと子のことばかり温め酒
菊池 美星

知音集 - 3月号雑詠作品 - 西村和子 選

神残り人亡ぶべしクリスマス
竹本 是
好き嫌ひ胸に納めて一葉忌
石山紀代子
雲に乗ることは叶はず落葉踏む
津田ひびき
初霜や作務の箒の強張れる
大橋有美子
けふもまた休診の札枇杷の花
井出野浩貴
コスモスの白多ければ風強し
岩本 隼人
さつきより音階あげて冬の鳥
山崎茉莉花
内山書店ここに健在街小春
江口 井子
雨風の募りたれども納め句座
渡辺 友子
園小春詠めましたかと声かけられ
岩田 道子

紅茶の後で - 3月号知音集選後評 -西村和子

神残り人亡ぶべしクリスマス 

竹本 是

 クリスマスは救世主イエス・キリストの生誕祭。この日はキリスト教徒ならずとも、神の存在に思いを致し、人間のはかなさや愚かさに思い至る。キリストの時代から、否人類がこの世に出現した時から、人々は争いをくり返し、人と人との憎しみは国と国との争いをひき起こしている。今、この瞬間も地上では争いや殺戮が絶えない。

 この句の「神」は、キリスト教の神のみならず、あらゆる宗教が崇める存在としての神であろう。人間を超越した神は、人々に愛を説き、救いを与え、来世を約束する。しかし人間がこの世でくり広げていることは、どう見ても亡びへと向かっている。そんな思いが切々と伝わってくる句だ。

 俳句はもとより思想や政治的主張とは異なるものだ。この句も作者の、クリスマスにあたっての感慨として詠まれたものだが、読み手を立ち止まらせ、深く考えさせる力を持った作品だ。人が亡んだ時、神は残るだろうか。神の存在は、人が創造したものではないだろうか。私はそんなことまで考えさせられた。               

好き嫌ひ胸に納めて一葉忌

石山紀代子

  樋口一葉の忌日は十一月二十三日、初冬の、落葉が降る淋しい日だ。二十四歳で夭逝したその生涯を思うにつけ、生前のつましい暮らしぶりを想うにつけ、輝かしい作品の抑制された文体を味わうにつけ、彼女が胸に納めてきたものの烈しさが想像される。

 田中優子著『「いやだ!」と云ふ』は、そんな一葉の心の声に耳を傾けた名著だが、私はこれを読んで、何よりも女性が生き難かった明治という時代の枷を強く感じた。「一葉の作品の登場人物たちは、逃げもせず、我慢もせず、『いやだ!』と叫んで次へ行く」と、田中優子氏は胴察するが、一葉自身はその声を現実社会では発することができなかったので、登場人物たちに託したのだ。

 この句を読んで、そんなことを思った。「好き嫌ひ」は、人や食べものに対する好悪だけではない。長女と生まれた運命や、明治という時代や、世間の価値観などを含めたあらゆる次元に対する感情と読むべきだろう。「一葉忌」という季題の丈の高さが、それを語っている。それは作者自身の心の持ちようをも語っていよう。

雲に乗ることは叶はず落葉踏む

津田ひびき

 人は誰しも雲に乗ることを夢見ることがある。青空に浮かぶ雲にふんわりと乗って、天上を運ばれたら、どんなにいい気分だろう。その夢が形となったのが宇治の平等院の天女たちと言ってもいい。まさに天籟が聞こえてくるような景だ。「雲上人」などという言葉も、人々の憧れを表した語だ。

 しかし、人生経験を重ねてくると、それは叶わぬ夢であることを思い知る。現実は地上に散り敷いた落葉の上を、一歩一歩あゆんで行くしかない。何と淋しい音だろう。何と地道な、地味な営為であることか。そこまで読み取れるのは、「叶はず」の一語の故である。「叶ふ」とは、望みどおりになる、思うようになる、という輝やかしくも幸せな言葉だが、この句はそれを否定したところに成り立っている。

 その意味でこの句は、年輪を重ねた作者の人生をかけた一句と言えよう。決して挫折の句ではない。むしろ詩人としての歩みがここから始まったのだ。「落葉踏む」の季題がそれを語っている。静かな淋しい何もない道を、ひとりで歩いてゆく、その孤独が人を詩人にするのだ。句ごころを呼び覚ますのだ。師の句に、

 蹤いて来るその足音も落葉踏む   敏 郎

がある。孤独に陥る時、私はいつもこの句を心に思う。そのたびに慰められたり、信念が固まっていったり、新たな一歩を誘われたりする。